古代東洋の空間感覚、時間感覚 ※長文です

試験から解放されて、
本腰を入れて思索を深めています。
忙しい中で断片的に考えていたことが、ぼんやりとではありますが自分の中で形を得たので、
「ちょっとよく分からない」
と思われそうではありますが、この難解なテーマについて書いておきます。

 

考えているのは十干十二支について。

※十干十二支は、私たちの生活や人生を調和的なものにするためのモノサシのようなもので、戦前までの日本人はこのモノサシを大切にしていました。

 

十干は空間を示し、
十二支は時間を示すと言われます。

 

高尾宗家の言葉によれば、
空間とは、眼に映る環境であり、知覚できる有形のこの世界のこと。
時間とは、人間が認識する無形の動きのこと。
例えば、「人間は動く時間である」と言われたりします。

 

この感覚は、西洋の(現代日本の)空間感覚、時間感覚とは根本的に異なりますが、
量子物理学のシュレーディンガーの猫の実験において、
「観察者の視点」こそがことの成否を決めるということと、極めて似た考え方、そう見ると理解しやすいように思います。

 

東洋では、
空間と時間は切り離され、
空間は空間として、
時間とは独立してそこに常に存在するもの。
その目に映る自分を取り巻く世界、と捉えます。
そして、
時間は人の視点をもって認識することで初めて存在する「動き」。
それを時間と捉えたようです。

※時は古代、茫々とした野っ原の中に城壁の中に在る自分、という視点、
馬を駆るような仕事でなければ、目に映る「世界」は変化しない、という視点です。

 

宇宙を極とする一極二元は、
空間を陽、静、有、
時間を陰、動、無、
となります。

これは発展して、
空間は平面五行説で木火土金水の五つに分類され、
時間は立体五行説で東西南北中央天頂の六つに分類されます。
そして、空間にも時間にもそれぞれ陰陽がある(五行×陰陽で十干、立体五行の6×陰陽で十二支)という枠組みになりました。

その十干十二支の枠組みが、
いわゆる東洋思想の根本概念で、
古代東洋における思考回路であり自然観であったのだそう。

 

さっぱりわかりません、
と言われそうなので簡単に私の解釈をいえば、
広大な砂漠の真ん中🏜に自分が一人でポツンと立って世の中を見回した場合、
眼に映るものは動きのない厳然とした世界(=空間)で、
時間とは、太陽が動くその動きの認識、
あるいは自らの身体が老いていくその変化の認識である、ということです。

 

このことは、
算命学の言葉にある、
「人は地に生まれ、天界をいただく。
ゆえに今生において天地人三界を脱すること難し。
ゆえにひとは天地人三歳の理の中に生く」
という言葉にそれを見ることができます。

 

まず空間認識についていえば、
現代社会に生きていると、
眼に映る空間(=環境)はとても静的なものではなく、
変化に富み、動的で、
それは多くの場合、人為的で人工的なもの。
なので、
それを天地の動き、宇宙の姿、その鼓動として認識することはできません。

 

また、実際現代に生きる我々は、
思いに任せてあちこちにいくこともできれば、転職や転校、引越しなど移動も自由自在です。
なので、「空間が動かない」という考え方を理解するのは難しい。

 

しかし視座を上げ、
例えば東京タワー🗼のてっぺんに立ち、
世界を眺めてみたらどうでしょう?

 

その空間はあたかも停止した舞台装置のようにただそこにあり、
変化を感じるのは自分の目に映る太陽と月の動き、
そして季節の移り変わりによって感じる寒暖の変化くらいかもしれません。

 

そして例えば
その「東京タワーのてっぺんに置かれた自分」という設定が変えられない世界においては、
自分に与えられたその環境でいかに自分を活かすか?
という思考回路になるのも頷けるのではないでしょうか。

 

「空間は動かない」
と書きましたが、
季節のように、舞台装置のように、あるいは惑星の動きのように、一定のサイクルで変化はします。

 

よって、
空間が動くとは「干が巡る」と言い換えられるわけですが、この干が巡ることによって起こる現象がどんなものになるか、例えば先の東京タワーの例で考えれば、
戊(山、土性の干)が巡れば東京タワーから山を伝って地に降りて人と交流できたりとか、
庚(鉄、金性の干)が巡れば鉄塔が立って似たものがやってきた(同じ鉄ですからね)と、仲間意識を持つ一方で、強いライバル心を持つ、

といったかんじになりそうです。

…それが、十干(=空間)の捉え方。

 

では時間はどうか?
時間は「動きの認識」と書きましたが、
この古代の静的な世界においては「動き」は二つしかありません。

①自分の命式に起因する、デフォルトの「動きの認識」、
つまりデフォルトの「起こる出来事の傾向」と、
②後天的にめぐる星に起因する、自分の外的環境に起こる「動きの認識」、つまり「他人の行動によって引き起こされる出来事の傾向」
…の二つです。

 

これは言い換えれば、
①自分に起こることは基本的に同じような傾向があり、
②そして他人が絡む出来事は一定のサイクルで繰り返される、
という言い方もできます。

 

位相法は十二支でそのタイミングにおける行動(及びその効果、結果)を読む方法ですが、
この二つの傾向がどんなものかを示しています。

 

なお、位相法について、
「位相法は“行動”についてのことしか分かりませんよ、“精神”や“気持ち”は別ですよ」
とよく言われますが、
ここでも、精神や気持ちは干が司り、
行動は支が司って、
それぞれ(干=空間・環境、支=時間・行動)別に、独立したものとして捉えていることがわかります。

 

以上、これが、古代東洋の空間と時間の捉え方、についての私の理解です。

どれくらいの人が、
この難解なテーマについての私の稚拙な文章を最後まで読んでくださるか分かりませんが、

古来日本人が採用してきたこの世界の捉え方、

十干十二支の宇宙観を多くの人と共有できるようになるといいな、と思っています。

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

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