人にせよモノにせよ、「見切れた」ときには離れましょう。

「見切る」という言葉には以下のような意味があるそうです。

1 ものをすっかり見てしまう。見終わる。
2 見捨てる。見限る。見切りをつける。
3 売れそうもない商品を非常に安い値段で売る。投げ売りをする。
4 よく見て判断する。状態を見きわめる。
(goo辞書より)

先日、割とよく使っていたお店について、
見切れてしまって、もう行かないかな?と思っていたのに、
なんとなく気持ちが惹かれて足を運んでみたら、
自分の常識的に「これはないな」という出来事に遭遇し、
多分、もう今度こそいかなくなるだろうと思っているところなのですが、

そんなことを考えつつ、「見切る」ということについて考えました。

人間関係やビジネスなどにおいて、
ある程度の期間付き合ったり使ったりして、時間が経つと「見切れてしまう」ということがあります。

この「見切る」というのが、上記のどれにあたるのか?

多分、4の「よく見て見極める」ということのうえで2の「見限る、見切りをつける」ということだと思うのですが、
よくよく考えれば、
自分にとって、その「見切れてしまった」ものや人というのは、自分にとって賞味期限切れである、という意味では、
1の「その人をすべて見終わった感じ」とか、3の「自分にとって価値がなくて投げ売りする」みたいな意味にもなるのだろうと思います。

…たいへんに失礼な話で恐縮ですが。

たいへんに失礼な話ではありますが、
もし、「見切れた」感じがあるならば、それは次に行きましょう、ということなのだろうと思います。

見切れたのに、そこにとどまっているとろくなことになりませんし、
見切れた人と一緒にいては、いろいろ問題ばかりが起こります。

算命学的にいうなら、半会のタイミングなのに、方三位的な世界にとどまっていては、エネルギーが消化不良を起こして腐ってしまいますし、
成長に向かう螺旋を昇ることなく停滞することは、螺旋を逆に降りていくことに等しく、あらゆる面でネガティブなことが現象化することになります。

もちろん、こうしたことは、宿命における位相法に半会などがある人においてより顕著ではありますが、
後天運では誰しもに半会のタイミングはめぐるので、基本的に、命あるすべての人に当てはまることと思います。

例えば、
恋愛などでも、「見切れた」感じを無視して付き合い続けていると、
いろんなところで問題が起こり始めたりする感じ、というのは多くの人が経験しているだろうと思うのですがどうでしょうか。

ちなみに、私は人間関係がとても狭いのですが、
かといって、広げないわけではなく、広げたうえで「見切れてしまった対象」から割と速やかに離れていく、ということを、
若者の新陳代謝のスピード並みに繰り返している結果として、人間関係が狭くなっています。

例えば、Facebookの「友達」は、増やすときには誰かしら減らして、基本的に増減なしを維持していて、
その結果、只今現在、私の回りにいる人やFacebookでつながっている人は、成長の螺旋をそれぞれに昇っている人ばかり。
…仲が良い人ばかりではないですけれど。

なお、繰り返しになりますが「成長の螺旋を昇る」というのは半会です。
命あるものは常に成長に向かう、その世界が半会の世界で、イメージとしては、広がる、異質な人とつながる、異次元とつながる、などです。

一方で、成長の螺旋を降りる、というのは対冲です。
最初の印象、感覚は、閉じた感じ、停滞した感じ、内に囲い込む感じ、として感じられる程度なのですが、それが続くと壊れます。

こうした成長の昇りと降り、半会と対冲の作用というのは、意識しているといろんなところに応用できます。

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