才能と刻線

命式的にはとても才能豊かそうに見えるのに、いっこうにパッとしない人というのは少なくありません。

頑張っている上に本人もいい人だったりすると、
才能ではなく人の縁でなんとなく食べていけてしまうので、
小さく穏やかに(そしてつまらなく)まとまってしまうのはよくあることです。

そんなことを考えつつ、
剋線のあるところが才能の在り処
ということの意味が腹落ちしました。

星があるということは、その才能の原石はもともと持っているわけで、
その才能の発露する出口を持っているということです。
なので、その星を持つ限り、
その星が司る才能をなんらかの形で発現させながら生きています。

そしてその星が、
相生であれば自然に発揮され、
相剋であれば発揮するのに試練があるわけですが、
これは別の視点で見れば、
相生であれば、緩慢に垂れ流し、
相剋であれば、研ぎ澄ましたものを発揮していく、という言い方もできるのだろうと思いました。

自然に発揮されればストレスなくその才能を発揮できる一方、
試練がある場合というのは、自分の才能はあるのに簡単には発揮できない、
ということが言われ、
相生のほうが良さそうに思われますけれど、
高い次元において「才能を発揮する」ということを目指す限りにおいては、相剋の試練を経なければ、「才能」といえる次元での発揮はできないということなのだろうと思います。

「自然にストレスなく」というのは生きやすいかもしれないけれど、
たぶんそれは必ずしも恩恵になるのは限りません。

その前提で考える場合、
高い次元で才能を発揮したければ、
相剋の場所の存在というのはとても貴重なものであるといえます。

相剋のある場所の人たちというのは、
その関係において緊張や軋轢を生じるわけですが、
才能を磨いてくれる貴重な存在であり、
そこに心情的な抵抗感があったとしても、
一つ視点を上げて、きちんと向き合うことで得るものがある相手であるともいえるわけですが、
その一つ視点を上げる前に、ガチンコでその緊張や軋轢に向き合うことが、
才能を光らせ引き出すだには必要なのかもしれないな、と、思います。

調整型の天才とか、
万人ウケする天才というのがあまりいないのは、
そういうことなのだろうと思います。

では、星図に相生しかない場合、
才能を光らせることはできないのか?
と考えてみたのですが、
おそらく自然体でいると穏やかに平和に(そしてつまらなく)まとまってしまいがちです。

しかし、
敢えて困難そうな場所を選ぶとか、
敢えて困難そうなハードルを設定するとか、
そういう相剋の環境を選択していけば、才能を引き出し研ぎ澄ませることはできるように思います。

思うに、
「若い頃の苦労は買ってでもしろ」
という格言は、そういう人のためにあるのではないかな?

相剋があれば、黙っていても苦労はふりかかってくるものなので、
別にわざわざ苦労を買わなくて良さそうですし。

とりとめないですが、
「才能を光らせる」ということについてそんなことを考えました。

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA