成功体験の意味と洩らすことの大切さ

権力を振りかざすと淘汰されます。
権力を失うか、病気になるか。
権力を振りかざすなら、その対極に対する配慮をしておくことで、中庸を保つ必要があります。
例えば、
多数の人には増税になったとしても、
一部の弱者に恩恵を与える、
というようなことはその最たる例。

莫大なお金を稼いだとき、
盛大な自分の御殿や身内にのみ費やすと、
その場合もやはり淘汰されます。
人心を失うか、稼いだお金を失うか、あるいはやはり病気になったりします。

学問を極めて学び知ったことを、
自らの利益のためだけに使う場合も同様です。
その学問自体が評価されないか、あるいはその上をいく概念の学説があっという間に出てきて塗り替えられたり、
あるいはやはり病気になったりします。

何かを得たときは、
善行やら寄付やら貢献やらでその得たものを洩らすことで偏りをなくし、
中庸を保つことが大事です。

それがたとえ、
自らの努力や尽力、それまでの艱難辛苦の賜物によるものであったとしても、
得たものを一人で握りしめてしまうことは、
偏りを生じ、中庸を欠き、
破壊的な結果につながります。

こうしたことは、
恐らくなんらかの成功体験のある人は皆知っています。
一度で分からなくても、
何度かの成功体験とその後の成り行きを実体験として経験している人は少なからず気づくもの。

成功体験の重要性というのは、
自信を持つことにつながるという面ももちろんありますが、
実は、成功の恐ろしさを知り、その成功をうまく軟着陸させることを学ぶためにこそ意味があります。

分かち合うこと、
譲り合うこと、
許すこと、
謙虚にいること、
これらは美徳であるのみならず、
実は成功を積み重ねていく上で最も必要な処世術でもあります。

とはいえ、
何か大きなこと、
常人には届かないような壮大なことをしようとする場合、
こうした中庸、バランスの考え方は、
役に立たないこともあります。

均衡は安定にはつながりますが、
劇的な変化を生むことはありません。
偏りこそが、物事を動かす、
変化には極めることが必要である、
ということもまた真理であるからです。

その場合、変化の起こし手、物事の極め手というのは、その変化を生ずることに存在意義があり、
他の要素にも寄りますが、
その変化を担った後は、その役割を終えて淘汰されていくのが理です。

よって、何かを極める、というのはあらゆる意味で覚悟が必要です。

しかし一方で、極を担っているように見える人が案外と長寿であるという現実も私たちはよく目にしています。

これは、
大きな変化を成し遂げた人が、その変化ののちに穏健派になることで、彼らは中庸を取り戻し、そうして淘汰を免れているということ。

あるいは、
独裁国家において極端な圧政を敷いている人が案外と長寿である裏には、
圧政に苦しむ人たちと同じくらい、実はその圧政によって恩恵を受けている人がいるということであったりします。

易経は、
そんな物事が長く円満に続いていくための中庸、その処世術について記されています。

簡単に言えば、
「何事もやり過ぎるのは良くないですよ」
ということが書かれています。

易経には、50歳くらいになると、
自然と中庸が身につくと書かれています。
このことの裏読みをすれば、
若いうちの中庸の欠如はちょっとした挫折で済みますが、
歳を重ねて50を過ぎて中庸を欠くことは、命の危機ですよ、ということでもあります。

ちょっと恐ろしげな書き方をしましたが、
多分、周りを見回してみると、
大抵の人は、
そのことが真実であることが分かるのではないかな、と思います。

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

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