末路本と中庸の話

◯◯した人の末路を描いた末路本というのがありますが、
あれはよくよく見ると、案外、自然の法則の延長にある出来事の顛末であって、
けっこう至極真っ当なことが書かれていたりします。

 

算命学的な視点で事の本質を眺めても、
水に沈んでしまったなぁ、とか
火が焼き尽くしてしまったなぁ、とか、
岩だらけで活かせないんだなぁ、とか、
金が多すぎて水が濁ったんだなぁ、とか、
納得感があって勉強になります。

 

なんといっても、
一応きちんと取材してる、事実に基づいているので、何がどう作用したのか、
その五行の流れと因果応報を分析できるのが良いです。

 

割と日常生活でよく見かけるのは、

自分の配偶者の悪口を壮大に言う人の末路や、
自分の勤務先の愚痴を壮大にいう人の末路。
昨日もちょっと訊かれた、
自分の勤務する自治体の市民を壮大に批判する人の末路など。

 

パッと見に共通項がなさそうに見えるこの三つは、
実はそれが「自らの足を食う」行為であるという点で共通しています。

 

「自らの足を食う」とは、
蛸が自分の足を食べる🐙
その愚かな行為のことを言う言葉ですが、
上記の三つはいずれも本来尊ぶべき自分の人生、生活の基盤を攻撃する行為で、
それはその基盤が破壊されるという現象となって現れます。

 

多分、注意深く世の中の現象を観察すれば、そうした事象は枚挙にいとまがないことに気づくのではないかと思います。

 

ちなみに、
批判や愚痴や悪口は言ってはダメですよ、というわけではありません。

 

教育機関で教育を受ける生徒とか、
会社の中で働く従業員とか、
一般大衆とか、
いわゆる「支配される側」にいる人たちは、そのように教育されるわけですが、

国と国の対峙とか、
企業同士の対峙とか、
本気で生きている自律的な人たちの対峙とか、
そういう世界では、
むしろ批判も愚痴も悪口も、
手段として有効であり、事実使われていたりします。

 

しかしそれらは、
批判すべきを批判し、
その効果をあらかじめ認識した上での愚痴なり悪口であって、
戦略的な攻撃であり、
自分の姿勢を示すための選択の表明です。

自分の立場や思想を明確にするための批判、
自分がそうした人からは離れるという意思の表明としての悪口というのは、
むしろ潔い選択として意味があり、尊ばれるものだろうと思います。

 

東洋思想で最も尊ばれる思想は中庸ですが、
自分の基盤をも含めてなんでも批判する、自分の足を食う🐙人というのは中庸を欠いた人です。
一方で、例えば頭の良い商売人が自分の客になりうる人はたとえ悪党でも批判しない姿勢というのは中庸を得た態度と言えます。

 

中庸を欠いた人というのは、
ほぼすべてにおいて中庸を欠いているので、
「徹底的」に何かをする傾向にあります。

末路本やそうした生き方をしている人は、
キワモノ的な面白さがあるものですが、
それを面白がっていると巻き込まれて、自分も中庸を欠き破綻することにつながるので注意が必要です。

 

一度中庸を欠くと、
加速して逸れていくので、
中庸を欠いていることに気づかなくなります。
バカの壁」という本がありましたが、
壁に阻まれて、周りが示唆しても気づかなくなります。

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

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