歪みと正しさと中庸

確信を得たのは最近のことですが、
歪みのあるもの(や人)はやはり短命です。

あるいは、もともとまっすぐだったもの(や人)でも、歪むとやはりその命の先は短いなと思います。

 

歪んだ環境では生き延びることもありますが、
真っ直ぐな環境では早晩萎れて枯れ果ててなくなりますし、
少なくとも自分が真っ直ぐであれば、まわりに歪んだ人はいなくなります。

 

前に、
嫌がらせや怒声で人を威嚇したり脅したりする上司というのがいたのですが、
その人は半年ほどで自分が会社を辞めて行きました。

 

嘘に基づく誹謗中傷で人を貶めたり、自らの保身をはかったりした人は本来約束されていたはずの出世の道を外れ、

人をタラし込んで自分の子飼いにし、傀儡で人を潰そうとした人は、その子飼いにしたはずの人たちの信用を失い追放されました。

 

法外な価格の、本来のフェアトレードから大きく外れた商売をしているお店は潰れ、
「友達」のフリをしながら近づいて商売をし、折さえあれば泥棒を働いている人は居場所を失います。

 

世の中の「キラキラ起業家」のキラキラ講師業がそう長続きしていないのは、それがハリボテでそこに真実がないからだろうと思います。

 

ジェームズ・アレンの『原因と結果の法則』という名著には、
「“歪み”というものは、この世に存在することすら出来ない」
ということが書いてありますが、
少し長いスパンで物事を眺めてみると、それが真実であることがわかります。

 

「物事の正しさ」
「正義🦸‍♂️」
というのは、
私たちが思っているよりもずっと強い力を持ちます。

 

正しさには、持続力、牽引力があります。
例えば、その事業の主人が弱ったとしても、その正しさが事業を牽引し、その事業の守り手が自然と現れます。

 

創業150年とかいう和菓子屋さんや呉服屋さんというのは、正直な商売をされてこられたんだろうということが分かります。

300年前の古典には真実が記されているものです。

 

「正直者が馬鹿を見る」とか、
「真面目な人が損をする」とかいうのは、
視野の狭いか、
立場に固執していることが原因です。

 

ある程度長いスパンで眺めたり、
別の立場で考えたりすれば、
そこには起こる出来事には必ず正義があることに気づきます。

 

強調しておくのですが、
「多くの出来事には正義がある」
ではなく、
「起こる出来事には必ず正義がある」
です。

 

なので、
先に挙げたいくつかの歪みの事例についても、起こるその出来事に意味はあり、
もし理不尽に思える歪みの現象を感じたら、その意味に早めに気づく努力をすることが必要です。

歪みは、それに気づくと消えます。

自分が歪んでいる場合、
それに気づいたら速やかに正すことが望まれますが、もしそれに気づいて放置しておくと、「強制的に」正されることになります。

 

この「正しさ」を東洋思想的にいえば「中庸」です。

中庸を「ほどほど」みたいに捉えていた人にとっては衝撃的だと思いますが、中庸とは正しさのことで、正しさとは中庸のことです。

 

よって、
正しさというのは四角四面の法律や常識のいう「正しさ」とは異なります。

 

多くの場合、
歪みに気づくと中庸を取り戻せるものですが、
歪みが強くなると、中庸を取り戻すのにきっかけと時間が必要になります。

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

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