世の中の本気とダブルスタンダード(思索のプロセスです)

世の中の、
人の「本気」が集まるところで起こることと、
人の「なんとなく」とか「人真似」とか「暇つぶし」が集まるところで起こることは、
天と地ほどの差があります。

 

起こることのみならず、
そこにおけるルールや法則、
処世術、というのも当然異なります。

 

世の中のダブルスタンダードは様々にありますが、例えば、

 

需要が集まるところと、
需要がそれほどでもないところのダブルスタンダードとか、

評価が集まる人と、
評価が一般的な人のダブルスタンダードとか、

お金💰をがっつり稼ぐ人と、
ふつうにお金💰を稼ぐ人のダブルスタンダードとか、

 

そういうところにあり、
それを同じ次元で語ると色々と見誤るように思います。

 

前に、個人と組織のアプローチが真逆だということを書きました。
※こちら:

https://kinugyokutoan.hatenablog.com/entry/2019/06/06/153226

 

同じように、
需要や評価、お金が集まるところ、人の本気が集まるところと、
そうでないところでは、
それぞれへのアプローチの仕方も相当に異なる、
恐らくはこれも真逆のアプローチなんだろうということを考えています。

 

一言でいえば、
前者に集まるのは星を陽転させた人、
後者に集まるのは星を光らせていない人。

 

星を陽転させた人が集まるところでは、
モノゴトのスピードが上がり、
スケールが拡がり、
勢いが増します。

 

一方で、星を光らせていない人が集まるところでは、基本的にモノゴトの現状維持が期待され、
出る杭は打たれ、
慎重さという大義名分の元でスピードは淘汰されます。

 

螺旋の端を走っているときに、立ち止まったり逡巡していると落下しますし、
ボルテックスの渦の中では進むしかないものですが、
星を陽転させた人が集まる場所のルール、処世術というのは、
そういう螺旋の端やボルテックスの渦の中での身の処し方に近い気がします。

 

例えば、
本気で勝負する場所では、
命綱もなく足場もなく、何に頼るでもなく自分の身一つ、信念一つで勝負する人だけが存在することが許される感じ、とか。

 

まだ、考えが整理できておらず、
取り留めなくて恐縮ですが、そんなことを考えています。

 

考えを整理できてはいませんが、
「なんとなく」とか「人真似」、「暇つぶし」の弊害は明確に認識できたので、
きちんと「本気」に拘っていこうと思います。

 

考えを整理できないまま文字にすることには功罪両面ありますが、
思索を深めるという意味では有効と感じているので、ご容赦くださいませ。

 

なお、今日の日経に、
都内の有力中高一貫校が高校募集を停止するという記事がありましたが、
これも「本気の人」を集めることが目的のようで、
多分、「本気の人の集団」の価値、そこに「とりあえず」とか「なんとなく」の人が混じることの弊害を認識したのかな?と思いました。

 

さくらんぼ🍒は実家にて。

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Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

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