昨日の補足と「宿命中殺」や「親縁・子縁がない命式」の場合における家族との関係

昨日書いた内容で、ちょっと誤解を与えたかもしれないな、と思ったのでちょっと補足しておきます。

「自分が自分らしくあるのが大切」であるのと同時に、
「自分を取り巻く人から見た自分というのも大切」なのだろう、ということを書いたのですが、

これは、
例えば陰占において縁のない存在でも強くつながるべきだとか、
陰占において中殺されている存在からも有意の存在でいられるよう努力すべきだとかいうこととはまたちょっと別のお話です。

基本的に、
陰占において縁がないなら縁はないのが自然であり、
陰占において中殺されているなら、そこに拘らないほうが良いのは当然のこと。

それとは別に、
自分の環境において、
自分が自分の生きる環境を大切にするのと同様に、
環境からも大切にされることが大事だろうと考えた、ということです。

なお、良い機会なので書いておくのですが、
例えば、
生年中殺だからといって親をないがしろにしてよいわけではなく、
生月中殺だからといって家系を足蹴にして良いわけでもありません。

あるいは、
親縁がないからといって、親を大事にしなくて良いわけでも、
子縁がないからといって、子の教育を放棄してよいわけでもありません。

中殺や縁の有無というのはもちろんあり、
そうした事象により、理解の出来難さやつながりの薄さというのは当然にあるので、それに応じた生き方が望まれるのですけれど、
そういう中殺や縁のなさを宿命に持つ場合であっても、
自分を育ててくれた親に対する感謝と孝行は当然に大切であり、子を当たり前に育てていくこともまた大事で、
さらにいえば、縁が薄くても先祖供養をすることで救われることというのはやはりあります。

そもそもですが、
親縁子縁は、なぜ「座」という考え方があるのか?ということをよくよく掘り下げれば、
縁は別に「社会的役割」というのがあることが分かりますね。

こうしたことは、徳につながるものであり、
縁の有無や中殺をもって不徳が許されるわけではないということは知っておく必要があるだろうと思います。

だいたいにおいて、
中殺があるような人は、多くの場合、親から離れることで親孝行ができるようになるものですし、
縁のない人というのも同様だろうと思います。

私自身、中殺があるので、親と同居していた頃はやたらと難しさがありましたけれど、
離れて暮らすようになってからは、定期的に実家に帰り、旅行にも一緒に行ったりもするようになりました。

自分が枠のない世界を自分らしく自由に生きることができるようになると、
自分を育ててくれた人、自分を支えてくれた人に対する感謝の念が自然と生まれ、大事にできるようになるものなのだと思います。

もっとも、世の中にはそうもいかない人がたくさんいることは十分承知しています。

ただ、
中殺や縁のなさというのが必ずしも憎み合うとか嫌い合うというわけではないということ、
多くの場合、親や家系への反発というのは、より広い世界に向かうための化学反応のようなものであり、
きちんとそうした世界に降り立てば、案外と親への理解、家系への寛容さというのを持てるようになるもの。

本質的に、憎み合うとか嫌い合うことを目的とした家族・家系というのはありません。
よって、もし、憎み合うとか嫌い合うという状況にあるときは、
もっと別の世界、より広い世界に向かうべきであるというサインかもしれない、という視点をもっておくと良いのではないかと考えます。

当事者である場合、なかなか難しいとは思いますが、
そういう視点を心の片隅に置いておくと、機運がめぐってきたときに、それを活かすことができるだろうと思います。

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