自分のスイッチに拘ることの大切さと、それを見分けることができるひとの義務について

算命学を学んでいると、
頑張ったほうがよいときと、頑張らないほうがよいときというのが割とくっきり分かります。
頑張ったほうが良い環境と、頑張らなくてもよい環境というのもくっきりはっきり分かるもの。

それはそれとしてあるのですけれど、
世の中の大半のことというのは、
何にせよ、「常に全力で」突っ走ってしまうとどこかで折れるか倒れるかします。

よって、本質的には、
「頑張る前提」ではなく、
「頑張らない前提」で、「ときどき頑張る」くらいがいいんじゃないかな?という気がしています。

とはいえ、これは平時のお話。

本日、流れてきたツイートで、

「やり始める前から仲間を探すな。
仲間ってのは覚悟を決めて走り出した人間に後からついてくるもんだぜ。
ルフィや炭治郎だって行動起こさなけりゃただの少年。
だが彼らは世界に出た。
目標が明確でそれに向けて突き進んだ。
君も仲間ができないことを嘆く前に動き出そうぜ。冒険しようぜ。」

という言葉に出会いました。

そういう「自分が覚悟を決めて走り出す」ということを始めた人は、
多分、しのごの考えるよりも先に、ただただ頑張ってしまうのだろうと思うのです。

その意味では、
そういう何かに出会うまでは、無駄に頑張らなくていいんじゃないかな、というほうが正確だろうと思います。

上記の引用を一言でいえば、
「スイッチが入る」ということだと思うのですが、
スイッチが入ってしまえば一直線に突き進んでしまうもの。

よって、スイッチが入れば自動的に一直線に突き進んでしまうものなので、
そうでないなら、あるいはそうなるまでは、
多分それは、適当にやり過ごしながら自分のスイッチを探すほうに気持ちを向けていったほうが良いように思います。

自分のスイッチではないスイッチに本気になったところで、
宿命から逸れてしまい、思うように進むことができず、
表面的にはまわりから歓迎され、感謝され、応援歌さえ歌ってもらえたりするかもしれないですけれど、

そういう興奮や喧騒が過ぎ去ってしまえば、
何ものでもない自分であるばかりか、自分自身ですらない自分が残り、虚しさばかりが募るものであります。

ちなみに、
多分、くっきりとした命式、例えば格に入っているような人は、
そういう「自分の道ではない道」を歩んでいる人に強い違和感を持ちます。

この人は何か違う、空回ってる、上滑ってる.…など。

世の中には「頑張っている人」というのはごまんといますが、
見る人がみれば、
本質的に自分のスイッチが入って突き進んでいる人かどうかというのは一目でわかります。

それだけはっきり違いがあり、彼らはそれをくっきり認識することができます。

これは、例えば干支齟齬などがある人は、その命式の姿どおりのもの、例えば世界の矛盾やズレなどに敏感であるのに似て、
完全格の人、そしてその完全格をきっちり生きている人であれば、完璧なものというものを確かに捉えることができるので、「違う」ものは「違う」ということがくっきり分かります。

これは、普通命式の人にはちょっと想像が及びにくいと思うのですが、
単に入格しているだけでなく、格をくっきり生きるような人は、
万事にわたり、つまり自分の専門か否かにかかわらず、
「本物」と「偽物」や「まがい物」とういうのを選り分けることができます。

これは、彼らに与えられた才能の一つであり、使命の一つなので、
それを認識できる人は、それをきちんと意識して生きないとダメだろうと思います。

まちがっても、
「みんなが“違う”道をいっているから別にいいか」などと思わないこと。

知らずにやるよりも、知って侵すことのほうが罪は重たいと思います。

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