親と子と子育ての話

子育てにおいて、
親のコンプレックスの解消のために子どもを育てる人がいます。

 

例えば、
バイオリンを習えなかったからバイオリンをやらせるとか、
名門校に行けなかったから進学塾にいかせるとか。

しかし、そういうパターンは、大抵うまく行きません。

基本的に、蛙の子は蛙です。
バイオリンの経験のない親にバイオリンの名手を育てることはできないし、
名門校に行けなかった親の子が名門校に行くこともありません。

 

たとえば、
たいへんな英才教育を施して、それらを達成し得たとしても、
それは短期的なことであって、
結果としてその親の望みを叶えた子どもはその後の人生において大きな歪みを抱えることになります。

 

そして恐らくその子どもは、
30代、40代になって、
「この道は違ったんじゃないか」
と、気づきます。

 

唯一、トンビが鷹を産むような、
親と異なる才能を開花させることがあるとすれば、
それは子どもが自発的にその何かに取り組んだときだけです。

本当に子どもを思うなら、
自分の価値観を押し付けることなく子どもの適性を見極めて育ててあげることが望まれるように思います。

 

 

自分の子供のことを話すとき、
「かわいい、かわいい」
と一生懸命に言う親がいます。

 

そう言う親の子どもに限って、一般的な外見という面では可愛くなかったりすることについて、不思議に思っていたのですが、

実はその親本人も、
多くの場合「外見的に可愛くない」ことを認識していてその上で、
子どもに対してもまわりに対しても、
そして自分に対しても、
「かわいい」という洗脳を試みているのだそうです。
一種の認知的不協和の解消です。

 

こうしたことは、
親に
「自分の理想の子供」
「自分の子供であればこうあってほしい」
といった思いが強くあったり、
自己評価と周りからの評価のギャップが大きいような場合において顕著です。

 

これもまた、
子どもには良い作用を生みません。

こうして育てられた子どもは、
「自分ではない何か」
になることを強いられて育つことになるので、
本質的に自分を信じることができなくなります。

「自分ではない何か」を目指すということは、
根っこのない木を育てることに似ています。
見た目には整って見えたとしても、
腹が座らず、いざというときに踏ん張ることが出来ません。

 

唯一、親の理想、親がこうあってほしいと思うとおりに子どもが育つことがあるとすれば、
生まれたときから、一貫してそうした「理想」を実現していく教育を継続できたときだけです。
たとえば、歌舞伎役者の子どもが一貫して歌舞伎役者になるべく育てられる場合、その子どもは立派な歌舞伎役者になることが出来ます。

 

子どもを愛情深く育てることと、
子供の才能を引き出すことは、
多くの場合、矛盾します。
取り分け、一人っ子の場合、
愛情と期待が集中しがちであるため、
親の側にアンバランスがあると、そうした歪みがより大きく子どもに投影されます。

………
こうして書くと、
いかにもそれが悪いことのように思われそうですが、
実際にはそれが良くないかといえばそうでもありません。

実は今生きている人の大半がそうした歪みや矛盾の中に育ち、
その歪みや矛盾と戦いながら自分を見つけていくというプロセスを生きています。

 

何を言いたいかといえば、
あらゆることはあるがままの中で機能し、
特に過保護にしなくても、
生まれ出ずるべきものは生まれ、
そうならないものは自然淘汰の一環であるという話。

 

悪とされるものにも善たる面があり、
悪とされるものの本質が悪であるとは限らないという話。

 

そして、
たとえそうだとしても、
親と子の関係において、親は自分が子に為していることがエゴではないかを問い続ける必要はあるだろうという話。

それを改めないまでも、「自分が正しい」と過信する愚を犯すことは避けるべしらという話。

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

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