冲殺とか対冲とか相剋とか

冲殺とか対冲、相剋とかの捉え方について、
冲殺されるものとか剋されるものが「消える」とか「薄くなる」みたいな捉え方をする方がけっこういるのですが、
感覚としては「不安定になる」というのが適切なんじゃないかな?と私は思っています。

 

対冲は冲動ともいい、いわゆる「普通」の枠に収まらずガタガタと動く足場が安定しない感じです。
相剋はハードルがある分、「普通」の在り方では超えられない感じです。
冲殺は、その部分において枠がなくなるので、大きく動き回ることができる状態です。

 

西洋思想に基づく教育を受けている場合(戦後の日本人はほぼ西洋思想に基づく教育を受けています)。
東洋思想の言葉をどうしても西洋思想の枠組みで捉えようとしてしまうので、
冲殺はやっつけられるから弱くなるとか、
相剋は攻撃されるからその要素がなくなる、みたいな感じで解釈しがちですが、
東洋思想はもっと生々しく人間やその動きを捉えるので、
生々しい人間はやっつけられたり攻撃されたらどうするか?
と考えるほうが適切な解を得られます。

 

生々しい人間は、
やっつけられたり攻撃されたら大人しく言うことをきくのではなく、
ジタバタします。
兎にも角にもどうにかその状況を緩和するために動き回ります。

冲殺や対冲、相剋というのは、
そうした動きのように私は思います。

 

冲殺や対冲、相剋があると、
「イタタタ」
と思ってしまう、あるいはそんなふうに書かれてしまうのは事実なのですが、
本質はどうかといえば、
そうやって刺激を受けることによって
「なんとかしなければ!」
という気づきをもたらす要素であるともいえます。

 

才能占技などでは、
刻線の多いところが才能の在り処と言われたりしますが、
「なんとかしなければ!」
と思ってなんとかすることができればそれは才能として光りますし、
「なんとかしなければ!」
と思ってもどうにもできなければ、
刻されて沈んでしまいましたね、
ということになります。

 

ジタバタ動くということは、
周囲との関係において穏やかには推移しないわけで、
そこには摩擦や苦しみがあり、
簡単には解決できないわけですが、
「解決できないこと」にぶつかることが宿命にあるということは、
「解決できないこと」を解決することが人生の課題であるということでもあります。

 

課題なんてないほうがいい、
というのも分かりますが、
課題のない人生は退屈、
という考え方もあります。

 

世の中にはいろんな人がいるものの、
文明社会では「これがラク」という情報にあふれているので、
「課題バンザイ🙌」
と言える人は少なくなっている気がしますが、
宿命に冲殺や対冲、相剋のある人は、
課題を楽しむべき人なのではないかと思います。

 

ゲームにしても、
簡単すぎると作業的になってしまうものですが、
そうした簡単すぎるものはつまらない、という価値観を実は持っている人、
というのが、宿命にそうした要素を持っている人なんだと思います。

 

ネットでぐぐると「常識」とか「一般論」に根ざした悲惨なことばかり書いてあってへこみますが、
算命学では良いも悪いもありません。

自分の命式こそが自分にとってベストの生き方であり、
そこに人生を歩むための地図があります。

とりわけ「これは苦しい」と思えるような要素こそが、
実は自分の人生を歩む上での「灯台」であったりします。

 

冲殺や対冲、相剋のある人は、
ぜひそうしたところに注目し、
そこを愛して欲しいな、
と思います。

 

…半分以上、自分に向けての言葉です 笑

 

何かと試練はありますが、
こうしたジタバタした動きをどう制御するか?
どう消化していけば良いか?
という問いはなかなかもって取り組み甲斐があるな、
と私は思っています。

簡単ではない要素を持つことを祝福として捉えていきたい、
そんなことを考えました。

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

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