学びにおける「継続・蓄積」と「センス・閃き」

昨日の続きです。

「学び」ということについて、
継続・蓄積と捉える人もいれば、
センスや閃きと捉える人もいます。

これについて、
前者は玉堂星的学びであり、
後者は龍高星的学びである、
といわれることがあるのですけれど、

感覚としては、
継続・蓄積による学びというのは知性の星がない人の学び、
センスや閃きによる学びというのは知性の星がある人の学び、という印象があります。

玉堂星というのは、
「正統な学び」「基礎的な学力」といわれることが多く、
なんとなく「継続・蓄積」という印象がありますけれど、
玉堂星には徹頭徹尾一貫した理論理屈があるもので、
理論理屈の通らないような緩慢な継続や蓄積というのを玉堂星の人というのはぱっきりと否定します。

「母親の星」といわれ、優しげな、柔らかげなイメージのある玉堂星ですが、
案外と合理的というか冷徹というか…。

このあたり、
「母の厳しさ」、頭の悪い友達は寄せつけない的な母の姿を思い起こせばなんとなく理解できる感じかな?と思いますがどうでしょう。

昨日もチラリと書きましたが、
知性の星のない「継続・蓄積」の学びをしている場合、それは知識の蓄積にはなるのですけれど、
応用が効かないというか、
知識や事例に依拠しすぎて、
そこに流れる理屈や論理を見抜くができず、
我田引水に物事を捉えがちな印象があります。

一方で、
玉堂星は「机上の学び」ではありますけれど、本質を見抜くセンスというか閃きというのは持っていて、
そういう我田引水を断固として拒絶するように思います。

ちなみに、「我田引水」と揶揄するような書き方をしましたけれど、
知性の星を持たない方の「我田引水」というのは確かに論理的に破綻していることがよくあるものの、

「出来事に寄り添う」
「現実をしっかり見つめる」
という姿勢はしっかりあって、
知性の星がキラキラしている人よりも優しさがある、情的なあたたかさがあるように思います。

このあたり、
知性の星があると才に寄り、
知性の星がなければ徳に寄る、
ともいえるので、
知性の星がないことが悪いわけではありません。

実際、
知性の星がない=余計なことを考えない
ということでもあるので、
ある意味ではその方が適切であるのもありますね。

このあたり、南天運と北天運の違いを見るとなるほど、と思うところ。

※前に書いた南天運と北天運のお話

⭐︎才能についての考察https://www.kinugyokutoan.com/?p=1828

⭐︎南天運についての考察https://www.kinugyokutoan.com/?p=1832

なお、算命学を学ぶ、という場合には、才に寄りがちなのですが、
算命学で読み解けることを伝える場合には、徳もまた必要であるといわれます。

その意味では、知性の星の有無が何かを決定的に分けるということはないのではないかと思います。

※写真は先日「知性の星」をたくさんお持ちの方と鎌倉でランチをしたときのもの。
ハーブに埋もれたお肉が美味しかったです🌿

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