『日本国紀』続き

年始から読んでいる『日本国紀』の続きです。

気になったところをピックアップしています。

特徴は、日本について誇れることを片端から取り上げている点。
日本を愛し誇る気持ちが育まれそうな本です。
なお、この本は日本の通史ですが、通史は地政学を考える際にはとても参考になるもの。その意味でも、勉強になります。

以下、幕末から近代化まで。(ネタバレ注意!)

 

・幕末、天皇は日本人の精神的支柱であった。
・十二代家慶はペリー来航の6日後に他界、子は十四男、十三女をもうけたが成人したのは家定だけ、それも障害があり、何らかの遺伝的問題が疑われる。
勝海舟が取り立てられたのは、そんな十三代家定の治世において老中阿部正弘が広く対応策を募った中で意見を投じ認められたから。なお、こうして広く募集したことが倒幕運動のきっかけとなった。
・幕府がアメリカを皮切りにイギリス、ロシア、オランダと和親条約を締結しその威信が揺らいだ直後、江戸で大地震。死者一万人。
・ロシア来航時に安政の大地震が起こり、ロシアの船も壊れた。当時下田で日本人とロシア人が協力して救助にあたり、このお礼に日本人はロシア人に船を贈った。
なお、160年後、プーチン大統領来日時に、安部首相はこの船の絵を贈った。
大老井伊直弼は勅許なしに通商条約を締結、これに反発した人を片端から処分(安政の大獄)、一橋慶喜は隠居謹慎、吉田松陰は処刑→桜田門外の変。これを契機に公武合体のため、家茂・和宮婚儀(ともに15歳)。家茂は素晴らしい人格者だったが20歳で脚気により他界。
井伊直弼が暗殺された桜田門外の変において、守るべき上司を守れず無傷や軽傷の者はお家断絶、切腹に。
・日本中が攘夷と騒いでいた時に、佐賀藩鍋島直正は産業振興に注力、反射炉を作り、銑鉄をつくり、西洋の最新式の大砲を完成させた他、日本初の実用蒸気船凌風丸を完成。これはフェートン号事件の屈辱に起因。
これに薩摩島津斉彬が追随、挫けそうになる藩士に「西洋人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も人なり」という言葉。
※父が佐賀に生まれ上京して鉄鋼会社で働いたことを思い、特に心に響きました。
・遣米使節団の高い人間性と向学心、 確かな基礎学力。
・ジョン万次郎は幕末の志士の世界観を牽引、しかし当の本人は必ずしも厚遇はされず。
・日の丸は天下統一の象徴であり、元々は源平合戦で源氏が白地赤丸を利用(兵士は赤地金丸)。
小笠原諸島は、水野忠徳は外交手腕とジョン万次郎の通訳力で日本に帰属。
・第二次長州征伐、損得に聡い徳川慶喜、親幕府の孝明天皇の35歳での急死、そして14歳の明治天皇即位。
・四侯会議(島津久光山内容堂松平慶永伊達宗城)→対立鮮明化→倒幕とともに、橋会桑を討伐へ。
・小御所会議で徳川慶喜の辞官納地が決まったのは西郷隆盛の脅しによるもの。汚れ役の末路は西南戦争完敗→明治政府が長州主導となる遠因。
徳川慶喜が逃げたことで幕府側は繊維喪失。慶喜は水戸家で尊王の精神を学んだことに起因。本来水戸出身の将軍は出すべきではなかった(鬼門)。
江戸城無血開城勝海舟の手腕。
・幕末から明治の日本を訪れたヨーロッパ人は日本人の正直さや誠実さに感銘を受けた。
・五箇条のご誓文と十七条憲法の類似性。
琉球国1871年鹿児島県へ編入、1872年政府直轄、1879年沖縄県へ。
廃藩置県は返済困難な借金の帳消しになる(政府が引き継ぐ)形で行われスムーズに実現。廃城令により多くの天守閣が壊された、残念。
・ロンドン視察で夜のロンドンにホームレスの集団を見て、華やかな文明には暗部もあると知る。
ビスマルクに言われた言葉「弱い国が国際法を導入しても権利は得られない。大国は自国に有利な場合は国際法を守るが、不利な場合は軍事力をもって外交を展開する。よって強い国になる必要がある」→富国強兵へ
・日本初の鉄道(新橋-横浜)は、計画から2年半で実現。
明治12年までに153の国立銀行が作られたが、その資本は全て民間から。
明治6年1873年司法省江藤新平肥前)が山縣有朋井上馨(長州)を辞任に追い込み、これに危機感を抱いた薩長征韓論で巻き返し、以後薩長閥が政府で主要な位置に。土佐肥前は野に下り自由民権運動へ。
台湾出兵の名目は琉球を守ること、この際、台湾は清の帰属、琉球は日本の帰属と確認された。
・朝鮮開国は不平等条約による。国力と情報に劣る弱小国は強い国の言い分を飲まされる「ジャングルの法則」を実践(褒められたことではない)
・開国から近代化の動きは「世界史の奇跡」といわれる。
・「君が代」ら古今和歌集の詠み人知らずの歌から。世界最古の歌詞を持つ国家。

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

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