家族の少し残酷な話

ちょっと残酷なお話です。

「捨てるために得ておく」という考え方があります。
「良くない時期」には色んなモノを手放していくことで厄を払えますが、
そのために得ておく、ということです。

これはモノに限らず、人や人間関係にもあてはまります。
例えば、「大切な関係を失う時期」というのは誰しもにありますが、
大切な関係を3つ持っていれば、1つ失うだけで済むこともあります。
1つしか持っていなければ、全てを失います。
仕事の関係、習い事の関係、遊びの関係…たくさん持っておくと良いのは、そういう側面もあります。

 

算命学は家族単位で生命を捉えますが、
子供をたくさんもうけておくことも、同様に捉えられます。

日本はそれほどでもありませんが、世界の富裕層が子沢山なのはそうやって子供をたくさんもうけることで、家系を支えるという意味がありますが、

これは、家系を存続させる(タテに続く)という目的もさることながら、それ以上に、

家系の基盤を充実させる(ヨコの安定を図る)ことのほうにその目的があるように思います。

(こうした考え方をすることに抵抗のある方もいると思いますが、これが算命学はとても非情な学問と言われる所以でもあります。)

よく、家族が亡くなると「天国から見守ってくれている」といいますが、実は文字通り、亡くなることによって家族を支えています。
例えば、家族のうちの誰かが、何か器にそぐわない成功を収めると、その不足を補うために、天に昇ってそれを支えてくれたりする。

すべてプラスとマイナスが差し引きゼロになるように、なっていると言われます。

このことを別の角度から見れば、

子供がたくさんいれば、その中の誰かが大きく成功できるということであり、

場合によって家族が他界すれば、それによって家族の誰かが大きく飛躍することに繋がったりします。

 

「成功している人」というのは、ほぼ命式通りに生きているものですが、
(命式通りに生きてるから、成功している、とも言えますが)、

その生き方も、実は家族が支えています。

1人が命式通りに生きようとすれば、家族の誰かが命式から外れた生き方をしているもの。

これは、成功しているほうが幸せで、支えているほうが不幸というのではありませんし、その逆でもありません。

ただ、命式通りに生きていれば、社会的な意味で大きなインパクトを与える生き方になる=成功する 命と、それを支える命があるというだけのことです。

 

命式通りに生きることは、自分を光らせる道のど真ん中を生きることであって、妥協できないし、したくない、という生き方になります。

誰かのマネではなく、オリジナルの生き方に、

ナンバーワンではなく、オンリーワンの人生になります。

 

世の中の成功している人がどれくらいいるか分かりません、仮にピラミッドの上3パーセントくらいだとすれば、多分そのあたりにいる人たちは、妥協なく自分の人生を光らせて生きていて、

なんとなく仲良く、とか、
失礼のないように合わせる、とかはあまりしないかとしれません。

そういう当たり障りのないあり方は、

ある面から見れば、自分の全き生き方の否定とか、

純粋さが濁るという面があります。

 

まっすぐな生き方を、みんながみんな、選択できるわけではありませんが、

もしその選択が許される状況や環境、それが可能な立場にあるならば、

その人は、
全き人生のほうを選択することが「義務」として課せられているのではないかと思います。

そして、その場合は、宿命的に、家族が支えることになるわけですが、

家系を牽引する人と家系を支える人の役割分担があるという算命学的な視点は、

現代社会における「個の尊重」と矛盾するもののの、

本当にその役割を担っていることに気づいたら、

喜んでその「支える」役割を担うような気がします。

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

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