天中殺の禍と精神性、禍を環境に見るということについて

Facebookから質問を頂くとはよくあるのですが、最近、ブログ用のアドレスをコメント欄で公開したこともあり、
ブログ経由で質問をいただきました。

私が算命学の占術より思想哲学の方に気持ちを置いていることを読み取ってくださっていて、読んでる方には分かるんだなぁとちょっと嬉しく感じる方からのご質問。

質問の内容は、先日書いた、
「徳を積み、精神性高く清く正しく生きている人は、命式が悪くても禍を受けにくいといわれます。」
ということの「精神性の高さ」とは?
ということと、
「精神性高く正しく生きている人は、
天中殺の現象を、自分で体験するのではなく環境の中に見るようになる」
ということの意味についてです。

参考になる方がいるかもしれないと思い、こちらでもご案内いたします。

精神性の高さですが、
平たく言えば、現実の吉凶や幸不幸、苦楽に惑わない心を持つことを指します。
生きていると、あるいは普通に生活しているとイヤなことや腹が立つこともたくさんあるわけですが、
そうしたことのプラスの面も見通し意味を見つけて心が安定することとも言えます。
こうした視点を得ると、幸せも不幸もなくなる、その視点を得ること、と私は理解しています。

この視点を極めると、世の中の出来事の華やかな色合いを感じることがなくなると算命学ではいわれます。
なので、芸術家として大成するひとは、精神性が早い段階で高まることは望ましくなく、相剋、とりわけ火水の相剋の苦悶のなかに過ごす時期が不可欠でもあり、その苦悶を味わい尽くすことによって芸術が成るといわれます。

卑近な例をご容赦いただいて私の話をすれば、
仕事上の問題やセクハラを含む理不尽な出来事に対しては苛立つよりも「そうしたこともある」と受け流せるとすれば精神性が少し高まったと言えるかな、と思っています。
精神性が低い場合、そこで戦ってしまいます。(そんな時期もありました 笑)

そして、その視点を得ると、
自分ごととしては特に大きな問題は起こらないものの、周りの人の中に問題が起こるのを確かに見るようになったように思います。

そのことについて私の師にいわれたのは、
そうしたとき、完全な「他人事」として受け取るのではなく、自分に起こる禍をその人たちが引き受けてくれているのだと心のどこかで認識し、
同情を寄せつつ、改めて自分の心の在り方や行いを慎むようにということです。

天中殺は、天の枠も地の枠もなくなる時期なので、どうしても中庸をそれます。

そうした逸れた自分の先に
人に起こる禍を見ること、
場合によっては我が身に禍を受けることの意味は、
身を慎み、心を改めて中庸を目指し、
物事の良い面と悪い面を一極二元の視点を持ってみつめ、
その境地に身を置くことが促されているということ、
そう認識することが必要ということと思っています。

そうしたある種の達観した視点を得ると、禍が起こらなくなるというよりは、禍を禍と思わなくなる、ということとも言えて、
「人生万事塞翁が馬」
の世界観をもって生きていける、ということなのかもしれません。

今日は友人の昇格祝いをしました。
帰り道、見上げたら梅が満開で、あたたかな空気の中を心地よく散歩をしながら帰りました。
人の禍も福も我が身のことと思える境地を大切にしたいと思います。

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Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

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