宿命と環境の一致

先日、宿命の消化ということについて書きましたが、同様に「環境を選ぶ」「環境の一致」ということも算命学ではとても重要な要素の一つです。

 

例えば、全濁の人は建前の社会では混乱を招くばかりですが、本気の勝負ができる場所では活躍します。
一方、全純の人は建前の社会では大いに存在感を発揮しそうですが、本気本音の社会では震え上がってしまうかもしれません。

 

上格の人であればルールが明文化されているような世界で真価を発揮しますし、
牽牛星中殺などがあれば名誉が墜ちたところからがスタートであったりします。

日支中殺、日支冲動などがある人は、本来結婚に気持ちが向かないのが自然な気もします。

もちろん、断片だけをとって「こう」と言えるものではないですが。

 

しかしこういう、環境との一致不一致というのは実際とても大切で、
一歩抜けて何かをしている人とか、
人と異なる輝きを放ち、多くの人を魅了するとかいうことを成しているひとというのはやはりどこかで宿命と環境が一致しています。

 

世の中では、
高い学歴をもって高収入の人と結婚し、立派な家に住んだり大衆からの評価を受けたりすることをもって「幸せ」だと考える人が結構いますけれど、
それは「一般的な幸せ」とは言えるかもしれず、それをもって世の中の人からは「幸せそう」だと思われるかもしれませんが、多くの場合、そうした「一般的な幸せ」とか「幸せそう」というのは、「長続きする幸せ」や本人がそれと認識できる「本当の幸せ」ではないのではないか?
…と思います。
(もちろん、そういう選択が宿命にジャストフィット!している場合は別です)

 

ある程度長く生きて、ある程度世の中のことが分かり、ある程度人生のことなどもわかってくると、
あの人は学歴が邪魔しているな、とか、
あの人は結婚が邪魔しているな、とか、
あの人は財産が邪魔しているな、とか、
感じられることがあるのではないかと思います。

 

算命学的に見れば、そういう人というのは、命式的には偏って、突き抜けた性質を持っているのになぜか緩慢な結婚をして世間体の方を気にするようになっていたり、
より広い世界で大きく活躍できるはずなのに、高い学歴をもって閉鎖的な大企業に入り、リスクを取れなくなっていたりするもので、
彼らはもしかしたら過去にはあったかもしれない「キラリと光る」ものがすっかり見られなくなっているという点で共通しています。

 

いや例えば、
何かのサークルとか身近な寄り合いなんかで「あなたはさすがね!」と言ってもらえるくらいのことはあるかもしれませんが、それはおそらく本人の満足にはつながっていないだろうと思いますし、見る人が見ればそこに輝きがないことは明らかで、おそらくは本人もそれと自覚していたりするので、そう言われたとしても本人はむしろフラストレーションばかりが募るのではないかと思いますがいかがでしょうか。

 

世の中の出来事というのは、
一つの波紋が同じ波紋を広げていくように、同じ思いからは同じ思いしか生まれません。

「一般的」というモノサシで計って得た幸せからは、「一般的」な幸せしか得られない、という言い方もできます。

 

一方で、
どこかで「自分の全き魂の選択」をした人というのは、「全き魂が震えるような幸せ」を得たりするもので、本気の純度が高ければ高いほど、本気の幸せに近づくのだろうと思います。

 

本当に??

 

と、いうのは至って当たり前の疑問ですが、
そういう方は、ぜひご自分のまわりを見回してみてほしいのです。

 

「人が羨む幸せ」というのを手にした人が、果たして本当にその後の人生において「本当の幸せ」を生きているか。
一方で、その道は不幸になると「まわりの人に大反対された道」というのを選んだ人が、本当にその通り不幸になったのか否か。

 

そのときその瞬間ではなく、
10年、20年というスパンで眺めてみると意外なことが見えてくるのではないかと思います。

 

算命学は早くても30代、たいていは40代以降でないと本質的な理解が難しいといわれます。
これは、そうしたあれこれを身をもって体験、認識することで初めてその宿命と環境の一致の有効性、重要性を理解できるからなのだろうと思います。

 

その意味では、
既に30代、40代の方であっても、何かを変える、何かを始めるのに遅くはない、ともいえます。

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

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