人生の「一回休み」の必要性

当たり前のことですが、
人間、常に走り続けることは出来ません。
それと同様に、人生において「常に」活躍し続けることもできません。

 

こうして書いてみれば、
「たしかにそうだな」
と思えるのですが、私たちが受けた学校教育やアメリカナイズされた成果主義が蔓延する社会においては、「常に」活躍し続けることを目指している人がとても多くて驚きます。

 

学校に入ったらいい成績を取ることを目指し、
せっせと勉強して高い偏差値の学校に入ることを目指し、
より安定した高いステータスの職業につくことを目指し、
その職業では周りが目を見張る業績を上げることを目指し、
子供ができたら自分は親としてキラキラすることを目指し、
子供にも同じように疑問の余地もないような素晴らしい教育を受けさせることを目指す。

 

目指すのは大いにけっこうですが、
全部が全部マルになるようなことはないですし、例えばハタから見てマルに見えたとしてもどこかしらには欠けがあるもので、
家族という単位でもそうした欠けは生じるものですし、
個人という単位でも人生のどこかにはやはり欠けや凹みがあるのが真理というもの。

 

先日書いた外次元などは人生における高稼働期間ですが、それが大運で2旬も3旬も(1旬=10年)続けてめぐればエネルギーを過剰に使いすぎてどこかで息が尽きてしまいます。

 

大運天中殺は基本20年ですが、これも陽転すれば高稼働。それを安定的にこなすならせいぜい15年で収束に向かうことが必要で、それを超えて陽転させてしまえばやはり力が尽きてしまいます。

 

12年に2年ずつ天中殺がめぐることの意味、
定期的に対冲や害、刑、破などの散法の時期がめぐることの意味というのは、
活躍に向かうための準備や学習、休息なので、これを無視して「常に」活躍しようとすると、当然どこかで歪みが生じます。

 

例えば、何をやってもうまくいかないときというのは休むべきときです。
だいたいうまくいくことというのは黙っていてもうまくいきます。
うまくいかないには理由があって、
それをやるべきではないか、
それをやる時期ではない、ということなので、
あれこれ頑張っても空回りしてしまいます、みたいなときは一旦退却してお休みするというのが正しいように思います。

 

人生には、「一回休み」が必要です。
そしてその「一回休み」は、10年くらい(あるいはもっと)あっても良いだろうと思います。

 

休んだことがない人からすれば、
休むことは恐怖ですが、
きちんと休んだ人にしてみれば、
その休みこそがその後の人生で最も重要なものであったと気づいたりします。

 

例えば子育てのための「一回休み」だったり、
例えば学びのための「一回休み」であったり、
例えば最近は否定的にいわれることのほうが多い自分探しのための「一回休み」であっても良いと思うのです。

 

冒頭に挙げたような、みんなが目指す「活躍」とか「キラキラ」から離れて「一回休み」に集中することはとても大切な気がします。
それは、例えば何もなし得る前の「一回休み」でもかまいません。

 

算命学のフレームを使っていうなら、
若年期に活躍の機運のある人は活躍した後で「一回休み」をやること、
晩年期に活躍の機運がある人は活躍する前でもとりあえず「一回休み」を決め込んでしまうのも良いだろうと思います。

 

大運についてよくよく学ぶとそのことがとてもよく分かります。

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

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