中殺現象は「時間的な距離」で回避できるか(検証中)

中殺がある人は「生地生家を離れて稼働する」といわれます。

中殺がある人には通常、
実家に在って葛藤の日々を送るとか、
地域の学校に通って疎外感を感じるとか、
組織の中で異質な存在とみなされるとか、
…そういう現象が起こるので、

実家を離れる、
故郷を離れる、
地域外の学校に越境入学する、私立学校にいく、
組織を飛び出る、
…ということで稼働を目指すのが良いですよ、というあのお話。

これは例えば、
近所の人とうまくいきづらい、とか、
「つるむ友人との関係」を維持できづらい、とか、
そんなふうにも現れたりして、

その場合には、
「近所から離れた人との関係」を模索する、とか、
「つるむことなく関係をつくる」とか、
そういう在り方が求められるともいわれます。

さて、これについて考えていたのですが、

この「生地生家を離れる」という、その中殺を回避するための手段は、
上記のとおり「距離的な空間」を設けることである、というのと同義であるわけですが、

「距離的な空間」でなくても、
「時間的な空間」を設けることでも対応できるのではないかな?
…と、思ったのですがどうでしょう。

前にも書いたことがありますが、
私はここ数年、近所の、志高く自覚的に生きている人たちと、
年末に「その年の振り返りと来年やること」を共有する、ということをしています。

この会の良いところは、日常的につるむ、ということをしない点で、
年に一度、人により、3ヵ月に1度だったり半年に一度くらいの頻度で会うそれにより、

日常的につるんであらゆることが日常に没する、
緩慢で惰性的な関係に堕してしまう、
…ということがなく、成長に向けた関係を維持できるところが良いな、と思っています。

このあたり、
中殺があると、「日常的につるむ関係」=半径の小さい環境=近所の人たちとの関係においては、
なかなかうまく関係を構築できないものですが、

「時間的な距離を置く」ことによって、
「空間的な距離が近い(ご近所さん)」ことの破壊的な作用=中殺の作用

…を回避できるという面もあるのではないかな?
と、思った次第。

中殺がある人が「距離的な空間」を必要とするのは、
その枠のないエネルギーの自由な発露を必要とするからですが、

「時間的な空間」であったとしても、
その枠のないエネルギーを、その時間的な空白において自由に発することができるわけで、
それもありだな、と思いました。

つまり、ご近所さんなどとは、
頻繁に会いすぎることなく、適度な期間を置きながら付き合うことで、
穏当な関係を築けるのではないか?というお話です。

もっとも、
家族などは、別に住んでいればそれもできますけれど、
同居している場合にはそういうわけにもいかないもので、

「生地生家を離れる」という中殺がある人の稼働条件が揺らぐわけではありませんが、
中殺がある人で、近所の人と付き合いにくいような人は、
意識的に「時間的な距離」を取ると良いのではないか、と考えました。

ちょっとしばらく意識的に観察してみようと思います。

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