金烏玉兎庵

表現することと水火の激突

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

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表現することばかりが先に立って、頭がいいはずなの目立ちたがり屋にしか見えない人とか、
様々に経験を積んでいるはずなんだけど言葉が軽い人とか、
知性に支えられた壮大な世界観があるんだろうけど理解を得られない人、
というのがいます。

先ほど、火金の相剋について書きましたが、この例は水火の相剋の話。
これも七殺といわれる激しい葛藤を生む組み合わせの一つです。

水火の相剋の、水は知性、火は表現のことですが、
学んだことをそのまま表現するこは何となく美しげに感じられ、パッと見にはそこに反発や葛藤があるようには感じられないもの。

これについて、
学んだことを表現するのはなかなか大変
ということで、「表現する前」に葛藤が生まれるのだろう、ということを前に書きましたが、
最近思うに、火水の激突は、「表現をした後」にも葛藤を生むように思います。

言い換えると、
水火の激突によって生まれる葛藤は、学んだことを外へ表現していくことのプロセスで発生する葛藤と、
内側で学び深めたことを「そのまま(洗練することなく、意味を持たせることなく)」表現してしまうことで発生する葛藤の2つがあるということではないかな、と思います。

最近様々に考察していく中で、
火性が先走る「過剰な表現」や、
火性が自家撞着を起こした「表現のための表現」のような火性というのは、
知性を淘汰してしまう(水が蒸発してしまう)ものだな、ということに気づきました。

文化的知見や教養や経験(水)を備えた人でも、それを伝える(火)ことに前のめり(火性過多)になっていると、その知性・知見が伝わらない、ということはよくあります。
あるいは、
筆者の「伝えたいこと」がいっぱいに詰まりすぎた本というのは、逆に、表面的で薄っぺらく、人の心に響かない、独りよがりで空っぽな表現に成り下がっている印象を受けたりします。

端的にいえば、
「表現・伝達」の たる火の星なのに、
水がその火を消してしまって、表現が上滑りで伝わらない、という事態に陥るというか。

何かを伝達する(火性)には、
自らの信条や集団のポリシー、伝統や「あるべき世界」などを守ること(木性)、
あるいは成長や協調(木性)というテーマが必要で、
そうした木性に支えられない表現(木性を経ない火性)というのは、本来の火性の性質・能力を発揮することができないということなんだろうと思います。

これはつまり、
水の知性を人に伝えよう(火性)とする場合、
何かを守る(木性)という目的を得て初めて人の心に届く表現となる(水生木、木生火)ということ。

七殺は常にそのつなぎ役を必要としますが、水火もそのつなぎ役(木性)はとても大事です。
私も水火の激突を星図に持つので、きちんと木性を意識することを心がけようと思います。

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