金烏玉兎庵

対冲、仮想敵を必要とする人

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

最近気付いたんですが、
対冲を命式の中に持つ人というのは、
常に「仮想敵」の存在が必要な気がします。

 

「敵対する何か」あるいは「誰か」の存在、
いわゆる「対立軸」の存在があって初めて自分がはっきりしてくるとでもいうか。

 

もっと平たくいえば、
「敵対する何かや誰か」を意識することで俄然元気になる、何かしら役に立つことができる、みたいな。

 

身強身弱の別によって、
それが攻撃的になるか内向的になるかは別れるものの、
どちらにしても何かしら対立軸の存在があることで自分らしくなる=安定するように思いますがいかがでしょうか。

 

そもそもですが、
人が最も元気になり、
持てる才能を遺憾なく発揮できるのは命式にある気の姿のとおりに在るときなので、
名式の中に対立した気である対冲を持っていれば、何かしら対立する存在があってはじめて「命式どおり」になるわけで、
命式どおり=自分の型どおり=自然の姿
になれば、元気になるのは当たり前といえば当たり前かもしれません。

 

なお、「対立」というと車騎星を思い浮かべる方も多いと思いますが、
車騎星の場合は「戦う精神」が求められ、
対冲の場合は「現実における戦い」が必要であるように思います。

 

前に、
車騎星は正義のために戦うのがその役割ではないかと書いたことがありますが、
これは、車騎星は命式において自分が他者に剋される気なので、それに立ち向かう形でその役割が発揮されるからです。

 

一方、
対冲の場合は、それが地支の相剋なので、
「気」が現実として現れます。
つまり、現実の行動や現実の在り方における「対立」必要で、
役割の如何に関わらず(=陽占の星の如何に関わらず)、
何かしら現実世界における対立軸を得て、
その対立軸に現実世界において対峙することによってその気を消化できるということだろうと思います。

 

この対立は、
外からやってきたように見えたとしても、
対冲を持つ人はその対立を自らが「気」として持っているので、
恐らくは一生懸命避けたり解消したりしようとしても、それが消えてなくなることはありません。

 

そうしてみると、
世の中、喧嘩はダメですよ、仲良くしないとダメですよ、といわれますが、
対冲がある人というのは誰かしら、あるいは何かしらのものとガチンコで対立する必要があり、
世間一般の常識を間に受けていては、
元気に才能を発揮することもできず、安定することもできないということになります。

 

ともすれば、
平穏を求めて対立を解消したのに、より大きな対立を呼んでドツボにはまる、ということにもなりかねないような。

 

ちなみにこれは、
どこかしら、何かしら一人あるいは一つのことにおいて対立すればよく、
自分を取り巻くすべてと対立する必要はないようです。

 

言い換えれば、
対冲のある人は、
何か一人かひとつ対立軸を持つ必要があり、
そのうえで、その対立する人や要素を許容する必要があり、
対立を解消したり対立する人や要素から逃げ出したりすると、
新たな対立を呼ぶことになるということでもあります。

 

嫌いな人は嫌いなまま放置し、
苛立つ何かは解消しないまま置いておく。

 

そんなふうに「仮想敵」を置いておくことで自分が元気になり、それ以外の世界が円満になるので、
上司や友人に苦言を呈されたとしても、
それは自分にとって必要なことだと割り切ることが大事なんだと思います。

 

なお、対立を放置するのは何となくストレスフルに思えますけれど、
多分対冲のある人はそういう対立をそれほどストレスには感じないのではないでしょうか。

 

対冲の人というのは、むしろそういう対立する人やことを「仮想敵」として、彼らに打ち克つとかそれらを克服するとかいう目標を得て発奮するような気がします。

モバイルバージョンを終了