金烏玉兎庵

テレパシーに従うことの痛みと未来 宿命中殺と異常干支

テレパシー。
…なんていうとオカルティックですけれど、
波動が高く細やかになるほどに、まわりの人が考えていることや起こる出来事というのが分かるようになります。

これは、「霊感」というよりは、洞察力、というほうが多分正しくて、
相手の視線や会話の間合いといった、西洋心理学的アプローチのダイレクトな情報のみならず、

それまで自分の中に蓄積されてきた、あらゆる情報・あらゆる感覚というものが、どういう仕組みか分からないけれど、フルスピードで付合していって、
「あ、これはいける」とか、
「あ、これはダメ」といった感じで、
まるで機械がカチリとはまって計算結果が吐き出されるみたいに、そのことの意味や展望などといったものの意味が察せられてしまう。

その対象に同調することで、その対象の人やモノのあらゆることが分かる、みたいな。

多分、同じような人はけっこういると思います。
きちんと星が稼働している内次元・外次元があるような人や、
宿命中殺と異常干支が同居しているような人はたぶんそういう人と思いますがいかがでしょうか。

ここで「察せられてしまう」と書いたのは、
こういう洞察力が高度に働くようになったフェーズにいる場合、
「分かっているけど許容する」とか
「理解したうえで妥協する」ということが、とても難しくなる、

その結果として「察せられてしまった」ものが、自分の方向性を維持するうえで、存続することに意味がないものであれば、
それは自分が破壊せざるを得ないか、あるいはそのもののほうが勝手に壊れていくかは別にして、
どんなにその人やモノに心を寄せていたとしても、それらが自分の目の前からなくなっていってしまうからです。

「今の自分にはもう必要ないけれど心を寄せているモノ」とか、
「自分をダメにしてしまうジャンクなモノ」が壊れたりなくなったりしてしまう、

「妥協してでも関係を維持したい」とか、
「ちょっとちがうんだけど、許容したい」というようなことをしようとしても、半強制的になぜか縁が切れていってしまう。

これは、ある意味、
濁りを許容しがたくなり、
歪みに耐えがたくなり、
緩さや甘えを見過ごすことができなくなる、
ということが自動的に起こるのかな、と思います。

「見通せる」「察せられる」ということには、
それを喝破し糾(ただ)すか、さもなくば去るか、という責任を伴うように思います。

気づいたなら、看過してはいけない、とでもいうか。

もっと卑近な例でいえば、
とても親しくしている人がいたとして、その人の狡さというか甘さというか、人間としての卑怯な感じというか、そういうものに気づいてしまったら、
見て見ぬふりをすることはできなくて絶交するしかなくなってしまう、とか、

あるいはとても尊敬している人がいて、その人の狡さや濁り、どこも目指さないあり方に気づいてしまったら、
同じ空気を吸っていては酸欠になってしまって、そこから全力で逃げ出さなければ生きていけない、みたいなことです。

厳密にいえば、そういう事態に陥れば、
絶交するとか逃げ出すとか、リアルにアクションを起こさなくても、その瞬間に「この縁が切れた」ということが分かってしまう、
その後、取り繕ってもどうにもならなくなってしまう、
ということが、疑いようもなく確信として分かるので、
結果として「絶交するしかなくなってしまう」「全力でそのモノ・人から遠ざかっていく(自分からか相手からかは別にして)」ということになります。

そう考えると、
結果が既に全身に伝わってくるなら、それに逆らうことは無意味なのだろうと思います。

多くの場合、その察知したことが現実になるのはもう少しゆるやかに、時間がかかるので、
その「緩慢な死」にすがりついてしまいたくなるものですけれど。

なぜそんなことを書いているかといえば、
一人の時間が増えると、必然的に自分の純度が上がります。
低い次元のノイズがないのでどんどん感覚が研がれていって、いろんなことに気づいてしまう。
…いや、もちろん、それ勘違いかもよ?というようなのもありますが。

たぶん、世の中には同じようなフェーズにいる人というのはたくさんいて、
そのフェーズから、元の世界に戻って穏当に生きていくか、そこから突き進んで尖がって生きていくかが分かれるのだろうと思います。

多くの場合、「尖がって」という言葉には、若さや未熟さのような色合いが帯びるのですけれど、
しかしその「尖がった」というものの先にしか見えない未来というのがあって、

許されるなら(立場的に、突き進んでも大丈夫なコンディションにあるなら)、
その道を尖がって突き進んでみたほうがいいんじゃないかな、と思ったりします。

たぶん、「尖がって」の先にあるのは、ぐるぐるめぐる遠心力が徐々に角度を変えて描く螺旋で、
一番遠い螺旋のエッジに片足で立つような経験をすることになるのだと思いますけれど、

きっとそれは、中殺された不安定な足場を乗りこなすことに似て、
そこに立つことができたら、一段世界が上がるんじゃないかな?などと考えています。

話をテレパシーに戻します。

テレパシー、というか鋭い洞察力、というものについて、
多分、異常干支とか中殺とかあるような人はある程度、心当たりがあるだろうと思います。
重複していればほぼ間違いなく、そういう感性は備えています。

しかし、年を重ねるごとに、現実世界の常識にもまれるごとに、その感性にフタをしてしまっている人が多いような気もします。
そのほうが、穏当に生きていけますし。

彼らは、そういう繊細さをもって生まれてきたのに、その繊細さが察してしまう世界に耐えがたくなってその感性にフタをしてしまっていたりします。
子供の頃にフタをしていると、案外とその感性・感覚を忘れたまま大人になっていることもあります。

が、それはその人の本来の生きるべき道、あるべき姿(=宿命)からは逸れてしまっているので、
心当たりのある方は、そのテレパシー、というか同察力が察知するもの、というものをもっと大切にするといいんじゃないかな、と思いました。

その察せられた何かというのを無視しないほうがいいんじゃないかな、というか。

というのも、新コロ禍下にあっては多分、その感覚が命綱になると思うから。
うまく伝えにくいのですが、今がその感覚を活用するチャンスです。

心当たりのある方は、ぜひ改めて自分の感覚をとらえ、その導きに耳を澄まされますよう。

東京タワーやエッフェル塔のオブジェの大きめなものをいくつか家に置いているのですが、感性が研ぎ澄まされる感じがあります。

モバイルバージョンを終了