金烏玉兎庵

宿命中殺、異常干支、二天将星 スケールの大きな生き方と宗教について 維摩経より

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

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只今、断続的に「維摩経」を読んでいるのですが、その中に出てくる「空」の概念というのが、八門法における「ゼロ」の考え方ににているな、と思ったので書いておきます。
維摩経にでてくる「空」というのは、インドにおける「ゼロ」の概念のもとになったものらしいのですが、その意味するところは、「だれも住んでいない村」「村が空っぽ」であることなのだそうです。
そして、その空っぽの村には、8000人の菩薩、500人の声聞、そして幾千もの多数の神々や、他の国から来た菩薩と彼らが乗る巨大な獅子座もそっくり入ってしまいながらも、何ら圧迫しあうこともなく邪魔になることもないのだとか。
こうしたことから、「空」とは有限と無限の対立を超えているものを示している、と維摩経には書いてあります。

つまり、空間はあるけれどその中には何も入っていないのが「空」であり「ゼロ」であり、何も入っていない空間だから、その中にどれだけ入れることも、入れないことも可能である、それが「空」であり「ゼロ」である、ということです。
八門法における「ゼロ」というのも、まったく何もないか無限大、といわれますが、まさにこの「空」の概念なのだなぁと思ったのですがいかがでしょうか。
さらに維摩経では、「空」の本性として「不変の実態がない」という言い方がされています。これは、般若心経における「色即是空空即是色」における「空」にみえる性質ですが、「不変の実態がない」のだから、何か実態を求めるとか、形を求めるとかいう執着を持つと、本意を損なうということの理解につながります。
これを端的に言えば「悟りとは、認識対象を捉えようとすることを離れることで心が囚われることを回避すること」といえるのですが、これは、宿命中殺や異常干支など、壮大なスケールの中に身を置く宿命の人、つまり、確固とした現実の足場を持たない人が生きていくうえで取り入れることが望まれる在り方であるな、というように思います。
中殺のある人や異常干支がある人、あるいは天将星が二つもあるような人というのは宗教に向かうといわれることがありますが、彼らに望まれる自己を超越したスケールで生きていく、ということを目指すならば、自己の認識で捉えた世界を超え、自己という小さな枠組みにとらわれることをもって生きることが望まれる、ということであり、それがすなわち、宗教の世界である、ということなのだろうと思います。
それは例えばどんな在り方かといえば、身近なところでいえば「お布施」がその在り方を示しているように思います。お布施というのは、施す人、それを受ける人、そしてその施し施される対象のもの(例えばお金やごはんなど)の3つで成り立つものですが、そのいずれにも囚われない、拘らないことをもって正しいお布施となります。これをもって「三輪清浄」というのですが、その3つが囚われない、拘らないことをもってそのお布施は清浄なものとなり、「私が~をした」とか「●●を差し上げた」、あるいは「私は~をしてもらった」のようなエゴがあると、それは濁ってしまうといわれます。
中殺のある人や異常干支のあるような人は、スケールの大きな世界に対峙する分、広く活躍する可能性もある一方、自らを律しなければ、常人以上に深く沈むことにもなります。その意味でも、こうした宗教に見ることができるような在り方を備えることは大切なのではないかと考えました。※大運天中殺や変剋律大運の期間内にある人にもあてはまります。
なお、算命学において「宗教」というときの宗教は、最低でも100年以上の歴史のある宗教であると野島先生がおっしゃっておられました。つまり、新興宗教は含まれない、ということのようです。
また、維摩経では、究極の宗教家の姿を、出家ではなく、在家の、世俗の生活の中に理想を実現しようとする動きになる、ということが説かれていることも申し添えておきます。

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