金烏玉兎庵

生年月日を選ぶ帝王切開の是非について

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

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出産するときに、お腹を切って子を産むこと。
それを「帝王切開」といいますが、
これはその昔、帝王は帝王にふさわしい命式をもって生まれてくるべきであるという考えのもと、
その相応しい生年月日の気を受けるべく該当の日に母親の腹を切り開いて子を取りあげたことに由来しているそうです。

そうしたことを知ってか知らずか、
たまに「子供を産む日を選んでください」
というご相談をいただくことがあるのですが、こうしたことは私はお断りしています。

責任重大だから?というわけではありません。
(そもそもご相談事はいかなるものも常に重大な責任を伴います)

ではなぜかといえば、
生年月日を人為的に選ぶことは、その人為的に選んだ生年月日で生まれてきた子供の生命力を損なうことになるからです。
人為的に生年月日を選ぶというのは、人工的に宿命を創るということと同義なので、
いってみれば、天然のウナギと養殖のウナギの違いに似た差異をもたらします。

もちろん、その日に生まれればその日なりの宿命となり、その宿命に沿った流れをもって生きていくことになるのですが、
これは、ウナギがウナギという同じ魚のカタチに育つようなもので、
同じ宿命、同じカタチにはなるけれど、そこには厳然とした生命力の差が生まれてしまうということです。

例えば、
将来大成するように、ということを目指して生年月日(命式)を選んで出産したとしても、
実際に大成するには、どんな命式であっても苦難や困難という試練を超えなければ大成することはありません。
(例えば、天将星をもってうまれても、苦難や困難という試練なしには乞食にもなり果てるのと同じです)

そういう大成するために必要苦難や困難、試練というのを乗り越えるには生命力が必要で、
人為的に命式を選ぶということをした場合には、そういう苦しいことを乗り越えていく生命力が損なわれる、といわれています。

これは、帝王切開自体を否定するものではなく、
帝王切開によって生年月日を選ぶ(=命式を選ぶ)ということが生命力を損なうことにつながりますよ、というお話です。

子供というのは、自然にしていても、相応しい親の元に生まれてくるようにできています。
子育てにおいて、苦しいことやしんどいことがあったとしても、何かのときに「あぁこの子はこのために私のところに生まれてきてくれたんだ」ということに気づくものと思います。
そして、子を慈しむのと同時に、自分にとってのその子の意味を知り、その子の様子に神の姿を見るともいわれます。

子供の病気をなんとかしたい!その思いが原動力になって健康食品の会社を作りましたとか、
子供の障害がきっかけで障害者の人が活躍できる会社を作りましたとか、
子供の好き嫌いがきっかけで料理研究家になりましたとか、
そういう話は枚挙にいとまがありませんが、
こうしたことは、「神様が与えてくれた子供である」ということへの謙虚な姿勢の先に起こることであって、
生年月日を自分が選びその宿命を定めてしまった場合、なかなかそういう思いや姿勢にはたどり着きにくいという面もあります。

つまり、生年月日を選ぶというのは不遜で傲慢な行為であるということです。

前に、著名な算命学の大家であられる中森じゅあん先生の本を読んだときに、
自分にぴったりの日に子供が生まれてきてくれた、というようなことが書かれていました。
じゅあん先生は人為的に選ぶことの障りというのをよくご存じだったからこそ、自分で生年月日を選ぶということはなさらなかったのだろうと思います。

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