金烏玉兎庵

欲求と呼応と役割について考えたこと

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

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このところ、美術館に足を運ぶことができず、自分的にアート欠乏症気味です。
で、どうしているかといえば、グーグルアートで美術館めぐり。
取り分け気に入っているのはMoMAの中にある近代美術カテゴリの27点です。

ゴッホの渦巻き空の絵やラドンの幻想的でありながら力強い現実感のある絵は、算命学的思考の世界に通じるものがありますし、
あるいはテオ・ファン・ドゥースブルフの絵などは建築家の絵だけあって、深遠な宇宙の構造を示しているのでは?などと考えたりします。

全く飽きることもなく倦むこともなく眺めては、あー、生の絵が観たい、などと考えつつ、そればかり観ています。

ちなみにMoMAのその近代美術27点の中には、
同じ画家の似たような作品がいくつかあるのですが、
それを見ながら、画家が同じ構図や主題を何度も書くのは、
それがその画家本人との相似形だからではないか?
…とふと思いました。

前に、この世界というのは相似で出来ているのだろうということを書いたことがあります。
こちら:https://www.kinugyokutoan.com/?p=444

それと同じで、
画家が繰り返し描くもの、テーマというのは、どこか自分と呼応するものがあって惹かれるもの、
呼応するということは何か同じ形が自分の中にあって、その同じ形、相似の形を成す何かが呼び合うからその輪郭を捉え形として残す欲求が生まれるのではないか?

そう考えれば、その欲求に素直に従うことがその画家の役割であったということなのではないか?
と、考えたのですがいかがでしょうか。

そう考えれば、
その呼応するものに気づくことなしに自分の欲求に気づく術はなく、
その欲求に気づくことなくしては自分の役割に気づくことすらできないのではないか?
…と、いうことにもなりますね。

私は激務の最中にいた頃、自分の欲求がまるで分からなくなった時期というのがあるのですが、
最近でも、膨大なデータを前にピリピリと仕事をしていたりすると、
食事を味わうことも、
目の前の花の美しさを感じることも、
友達の優しさに気づくこともなくなったりします。

多分、これは呼応しなくなっているんだろうな、とふと思いました。

呼応といえば、前に星の呼応について書きましたが、大運の星は自分の星図の星と呼応します。
呼応することでその星は強まり、力強さをもち、輪郭がくっきりとしてきます。
星図というのは、ある意味では自分の欲求の縮図でもあるので、欲求を見失っているような人は、そういう星の呼応のタイミングを狙って自分の欲求を探してみても良いかもしれません。

自分の欲求だと思っているものが、実は他人の欲求だったということはよくあることで、そういう人は、自分の星図が嫌いです、などとおっしゃったりします。
自分の星図がしっくりきません、という人は、自分の欲求を見失っている可能性大です。
なので、心当たりのある方は、後天運で同じ星がめぐるタイミングでその星のテーマに取り組んでみたりすると、「あ!これが欲求だった!」と気づけるんじゃないかと思います。

一番がっつり欲求に気づけるのは大運ですけれど、月でも年でも、あるいは日でも、やってみると面白いことに気づけるのではないかと思います。

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