金烏玉兎庵

不快な人の正体は、自分に対する罪過ち

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

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※引き続き、観念的な話です。

 

この人といると不快だな、とか、
この人といると吸い取られるな、とか思う相手で、
こちらは冷たくしてるのに、
なぜかその人は自分に思い入れを持っているような人。

あるいは何かにつけてウォッチしていて、自分が書いたことや言ったことをこちらが忘れているようなことまで覚えているような人がいます。

 

こういう人は、
例えば避けたり絶交したり、
Facebookで友達削除などしたとしても、
早晩どこかでまたつながるか、
その人が消えたとしてもまた同じような人が登場します。

 

あるいは不快だから切ったのに、
なぜか自分が罪の意識でさいなまされる、など。

 

これはなぜかというと、
その人は、
供養しきれていない自分の罪の権化だから。
自分が責任を全うしなかった選択の怨念だから。

だからどこまでもついてきます。

 

よって、
冷たく突き放すのではなくできるだけ親切にするのがよく、
懇意にする必要はないものの、ときどきは思いをかけてあげるのが良いだろうと思います。

 

そうやって、その人に親切にすることで自分のその罪や怨念は供養され、浄化されて天に登ることができます。

 

人は人生において過ちを犯します。
そうした過ちというのは、未完成の思いとして残り、全うされることを求めて人型を得て、自分の前に登場します。

 

運が良ければ早い段階でそれに気づくことができますが、運が悪ければ晩年で気付くことなく困難や苦難がふりかかり続ける人もいます。

 

こうして人型を得る罪、過ちというのは、
財貨のために狡いことをしたり、
他人に酷いことをしたりというような罪過ちではありません。

もしそうなら、黙っていても現象化します。

 

何か手痛い損をしたり、
立場を失う失敗をしたり、
ガツンと大きな怪我をしたり、
あるいはそうしたそんな怪我などが家族親族に現れたりもします。

 

人型を得る罪、過ちというのは、自分に対する罪過ちです。

自分が追ってきた夢を大人の判断で諦めた自分への罪、
自分が強く抱いていた思い願いを全うしなかった自分への罪、
誰より好きだったのに「大人の判断」で恋人と別れた自分への罪などです。

 

自分に対する過ちが人型を得て自分の前に登場します。

「過ち」の「咼」は螺旋の滞りを示します。
「辶」は動きを示します。
つまり、過ちとは、人生の螺旋のなかで何かが滞ってループし続けているモノが動き出すことを示しています。

 

よって、
その過ちの人型の登場はその過ちを償うチャンスなので、大事にするのが良いです。
その過ちを償うことで、螺旋の滞りが消えてループが終わり、螺旋を登れるようになります。

 

つまり、道が開ます。

 

ちなみに、
人間関係を切るもっとも確実な、
そして唯一の方法は自分の次元を上げることです。

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