仕事柄、遠出をする際には、基本的に、「日」をみる・「気」をみる、ということを欠かしません。
とはいえ、「みてしまったら、気持ちが挫かれる」こともあり、
日程を動かせない遠出や、優先度の高い遠出の場合には、そういう事態を避けるため、敢えて見ないということもけっこうあるのですが、
…体感でいえば、 「敢えて見ない」ときのほうが、本当に適切なタイミングに恵まれる感じがしています。
何かといえば、先日の遠出が、精神的にも、現実的にも、けっこうインパクトが大きかったのですが、
これはなんだろう?と思って、今日、改めて日をみてみれば、
その行程が、 月運・日運ともに大半会 & 三合会局のタイミングに重なるという、なかなか狙ってもこういうタイミングに当たらないようなタイミングで、
こういうことは、やはり、 「敢えて見ない」ときに起こるものだな、と思ったのでした。
インパクトとは何かといえば、
精神的な面では、母が他界して以降、ふわふわとあちこちに散っていた気持ちが、ピタリと置き所を得て、納まった、多分、他人からすればどうってことないことながら、自分的にはドラスチックな変化、
現実的な面では、国木田独歩の短編小説の『忘れえぬ人々』という作品にあるような、派手さとは対極にありながら(いや、派手さの対極にあるからこそ、なのかな)、圧倒的な存在の軸と根っこをもって生きている(存在する)ことに向けた不可逆的な変化、そのことをいっていて、
なんだろう、
…いろんなものが浮遊して、ぐらぐらと揺れ続けていたのが、ピタリとはまり込んで納まり、あるべきところに落ち着いた感じ、といえば伝わるでしょうか。
そして、その感覚のど真ん中に在って、人生の節目においては、こういうことがあるんだな、と、静かに感じ入っています。
それにしても、
大半会とか、三合会局って、もっと派手な現象を伴うインパクトを想像する方が多いのですが、
こういう圧倒的にして不可逆的な変化というのは、「四の五の言わせない」かたちで起こります。
ついでにいえば、
木局という有形の会局は無形に向かうと考えれば、こういう現象も納得です。
「ビタリと静かに納まる」とか、「派手さなく圧倒的な軸と根っこをもって存在する」 とか、
これは、生きることにおいて「摩擦がなくなる」 ということでもあるのですが、
小林秀雄が『無常ということ』で書いていた、「人間になっていくプロセス」、とはこういうことなのかな?と、考えています。
そして、「上手に思い出す」ことの有用性。
多分、人生において自分がやるべきことをする=何か意味のあることをするときには、こういう感じが大事なんじゃないかな、という気がします
