『未来と芸術展』を観に行って参りました。
自分の未来を描くとき、
それをより立体的なビジョンにしようとするなら、
「自分の人生における未来」のみならず、
その「自分の未来」が展開される世界がどんなものかを知っておくことはビジョンの土台づくりに似て、とても大事なんだろうと思います。
未来なんて分からない、
と一般的には言われますが、
実のところ、向こう10年くらいにおける世の中というのは8割がた決まっていて、
それを大衆が知らないだけであったりします。
言い換えれば、
政治や経済、企業の力関係や研究開発の動向、過去の歴史などを精緻に眺めていくことで、
8割くらいの確度で向こう10年程度の未来であれば知ることができるということでもあります。
①企業や学者、政治家が「こんな未来をつくろう」「こんな未来になるだろう」と描く未来像というのがあって、
②志高い人たちが「こうであって欲しい」と願う未来像というのがあって、
③それらのうちで多くの人が同調する未来が顕在化していく。
…というのが未来ができる仕組みなので、
変えたい未来、
こうであって欲しいという未来があるならば、
①を知り、②の人たちと未来づくりに参画し、③のためにそのファンを増やしていくことが未来を創造していく方法である、
ということだろうと考えています。
そんな考えから、
今年を振りかえり、来年に向けてのビジョンを描くこの時期に、まずはその①の「未来」がどんなものかを観て来た次第。
なお、
何かしらの志を持って(②の立場で)未来を描くときは、
①の世界を生きる自分や家族、同じように志を持つ友人をイメージして、
そこで自分がどんな役割を果たしていきたいか?
どんな役割をその世界で果たせるのか?
を考える必要があるように思います。
とはいえ、
そんなふうに未来に対して能動的に働きかけていくことは、世界のエッジを突っ走ることに似て危うく心許ないものです。
右も左も分からない、単に無鉄砲なだけの10代や、
守るものが大してなく、怖いもの無しで勝負ができる20代ならいざ知らず、
ようやく実績と信用が積み上がってくる30代、
既に自分の成功パターンを会得して、それを踏襲するだけで「うまく生きていける」40代以降の人にとっては、
その未来と現実とのギャップが大きければ大きいほど、
未来に向かうよりも現実にとどまったほうが「安全」なように感じられるもの。
それでも、
①を描いて②の同志を得て、
自分の役割をイメージしているうちに未来に手触り感がでてきて、
くっきりとした未来と
はっきりした自分の役割に気分良く向かうことができるようになるのだろうと思います。
『未来と芸術展』ですが、
テクノロジーが発展した高度な都市に見合う進化と成長を人間は果たせるか?
というのが最も大きな課題になるだろうと感じました。
高度な未来都市を、単なる入れ物にしないためには、
人間の側も都市と同様に進化する必要があり、都市やテクノロジーを人生航路と連動させながら活用するとより発展的になるからです。
画像のオレンジ色の大地に並ぶ白い建物の模型は、人や社会との関わりを促す仕組みを備えたもので、関わりが広く深くなるごとに奥の方のカタチになっていきます。
鱗みたいなのが並んでいるのは海に浮かぶ都市。1つのモジュールが最大300人、それと公園などの共用モジュールで構成されます。
ちなみに、こういう環境が合うか合わないか?
そういうことを考える場合には陰占を使います。
高度に発達した未来においては人間の生き方も高度に個々人にフィットしたものとなることが求められるのだとすれば、
現代よりももっと算命学が果たせる役割は大きくなるんじゃないかな?と思いましたがどうでしょうか。