金烏玉兎庵

宿命に「取り組む」ということのススメ

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

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本日、というか既に日付が変わっているので昨日ですが、
昼間からお酒を飲んでいたら寝落ちしてしまって、気づいたら日付が変わっていました、すみません。

さて、今日ハタと気づいたことがあったので、書いておこうと思います。

私は算命学で宿命を読む、ということをしているわけですが、
これについて、たいていの人は、
「自分は確かにそういう要素、あるね」
「当たってるね!」
という反応をされるのですけれど、それはちょっと本末転倒な反応だな、と思います。

というのも、
当たっているのは当たり前で、当たっていないところというのは「改良すべき点」であるからです。

もっとも、がっつり相談されるわけでなければ、
差し出がましくもできないので敢えてそこまで私も言いません。

けれど本当は、
「当たっている」というその点は、もっとガッツリ伸ばすべき性質であり、
「当たっていない」というその点は、理由を掘り下げてきちんと取り組むべき性質である、
ということなので、
もっと真摯に取り組んでいきましょう、と言いたいところ。

「人生の改良」とは、そういうことです。

割と軽い気持ちで算命学を眺めているような方は、自分の宿命にある星を、
「あってラッキーなモノ」「自分の資産」みたいに思っている人が多いのですけれど、
本質的なことを言ってしまえば、
自分の宿命にある星というのは「十字架」であり、「返済しなければならない負債」のような側面があります。

これは、一極二元の思考を持つ人であれば当然に理解できると思うのですが、
権利の裏側には義務があるのと同様に、
持っている星というのは、自分が発揮することのできる才能である一方、光らせる義務を負った才能でもある、ということです。

その意味で、
自分の人生を全うする、完全燃焼する、与えられた命をきちんとこの世界において役立てて生きる、
ということを目指す場合、
「星を光らせる」「才能を発揮する」というのは、
「余裕があるときに、ちょっとやってみること」とか「気が向いたら試してみる」という類のことではなく、
「人生をかけて取り組むべきこと」であり、「全力で向かうべきこと」であろうと思います。

ちなみに、
「余裕があるときに、ちょっとやってみること」とか「気が向いたら試してみる」という捉え方をする人の多くは、
自分の才能、自分の能力というのを軽視しています。
一方、
「人生をかけて取り組む」、「全力で向かう」ということを真剣に考えている人の多くは、
自分の才能、自分の能力というものにある種の信念を持っているように思います。

「我々は、我々自身にとって必然的に赤の他人なのだ。
我々は、我々自身を理解しない、我々は我々にとって最も遠い者である。」

とはニーチェの言葉ですが、
たいていの人は、自分が持つ才能を知らず、その才能の開発に真面目に取り組むこともなく、その才能を発揮して世の中に活かすこともなく生きています。

現代社会には自分を知る手段というのがあまりないので致し方ない面もあるのですが、
その結果として、時間を「日々の糧を得る」とか「娯楽に興じる」とかいうことに費やし、人生を緩慢に過ごしている人というのが多くいます。
少し強めの言葉で書けば、それって「奴隷」と同じ、と思うのですがどうでしょう。

自分の才能を知り、それに真摯に取り組むことは、本質的な意味で「生きる」ということをしようとするなら不可欠のことであるように思います。

なお、ときどき「ストレングスファインダー」における「才能」を高らかに掲げて取り組んでおられる方がいますが、
あれは自己申告、自己評価によるものなので、必ずしもその方の「才能」ではありません。
まったく何もしないよりは良いかもしれませんが、他の先天的な才能というものも加味したほうがベターと思います。

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