「苦労」が「生」をささてえいるのではないか?というお話

「お金があれば働かなくて良いのか?」
というテーマがあります。

これについて考えていたのですが、
人間というのが基本的な五行を備えるべきであるという考え方に立てば、当然、
「お金があっても働くべきでしょう」
ということになるように思います。

働く=金性
行動する、活動する=金性

なので、
「働く」ということに類する金星の質、
そういう要素を何かしら備えねば、健全に在ることは難しそうな気がします。

別に、「働く」というのは、“会社で働く”とか“お金をもらう活動”に限られません。
例えば主婦として家で家事をすることやら、
ボランティアで何か奉仕活動をするのでも良いと思います。

ただ、そういう「働く」ことに連なる「行動」や「活動」というのは、やめてはいけないのではないか?
それをやめては、「命の活動」が止まってしまうのではないか?
というような気がしています。

引退した人が割とすぐに他界してしまったりしますが、
そういう様子を眺めつつ、そんな気がしたのですがどうでしょう。

これは、
働くことによって何かしら社会に貢献する(間接的にせよ直接的にせよ)ということがない存在はこの世に生きる場所を失うのではないか?
ということと併せて、

働くことに伴う「苦労」というものが実は人間の「生」を支えているのではないか?
という考えにもつながっています。

ただ今、臨済宗の開祖である栄西禅師が記された『喫茶養生記』という本を読んでいるのですが、

この本では、

人間の健康のためには五臓を養う必要があり、
五蔵を養うには五味(酸味,苦味,甘味,辛味,鹹味 (塩味) )をとることが必要であるけれど、
五味のうち、苦味というのは普段の生活で摂ることがないので、苦味をとるために喫茶を習慣化しましょう。

…ということが書かれています。

ちなみに、五行と五味と五臓の配当は以下のとおり。
木性 肝臓 酸 
火性 心臓 苦
土性 脾臓 甘
金性 肺  辛
水性 腎臓 鹹味(塩味)

この本では、人間の最も大切な心臓を養うのが「苦味」であるという面からも、喫茶の習慣がいかに重要かを説いているのですが、

それを読みつつ、
働くということに付随する、「苦労」のような人生における「苦味」というのも、生きる上では不可欠の要素なのではないか?
…と、考えた次第。

その意味では、
上記の「金性」にかかる「行動」や「活動」というのは、そういう「苦労」をはらむ可能性のある何かである必要があるということでもあります。

企業における定年年齢が、漸次上がりつつあります。
働き始めた頃は60歳定年だと思っていたのが、あっという間に65歳が当たり前になり、
早晩、70歳定年制になっていくのだろうということがほぼ確定的な今。

これについて、
「お金があれば早期リタイアしたい」
「お金があればもう働きたくない」
という考えの方もおられると思うのですが、
早期リタイアした上で、
あるいは働くのをやめた後で、
文字どおり悠々自適の「苦労のない生活」に入ってしまったら、
人間として存在することが、困難になってしまう何かがあるのではないか。

これは哲学的な問いでもあるかもしれません。

この「苦労を伴う活動」とは、
たとえば、スポーツジムで身体を剋す運動でも良いような気もしますし、
あるいは何か「無駄に損をすることにお金や時間を費やす」ようなことでもいいような気がしますが、

いずれにしても、何かしら「苦しい」ということをはらむ活動をしなければ、
人間として生き続けるのが難しくなるのではないか?
…と、考えたので、記録として書いておくことにしました。

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Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

2 件のコメント

  • 十二支に28元も含めて「金性」が1つも無い場合は、どのように考えられますか?
    1つも無い場合は、「ゼロか無限大」とかいう話もありますが。

  • ゆーこさん、こんばんは。
    陰占にせよ、陽占にせよ、「ない五行」というのは、ゼロか無限大と思います。
    つまり、「ない」ということは、自分の中に「基準がない」ということなので、自分の性質として育てていく、ということは出来ないわけですが、
    それを「マネする」「創り出す」ことは出来るかもしれません。
    基準がないことにより、それが「無限大」になることはあるかもしれませんが、基準や裏付けのない「ない五行」というのは脆いです。
    そのマネや創造が、単なる張りぼてでは苦しいことになるわけで、積極的にそれを使うことを推奨するものではありません。

    どうしても使いたい場合は、いくつか工夫が必要になると思いますがどうでしょう。

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