「我慢や手加減はしない方が良い」という話

自分のやりたいことを我慢する、というのは、思いのほか「危険」なことだな、と思います。

自分が我慢する、それを美徳と思っている人が世の中にはけっこうおられますけれど、
あまりに本質的な自分の欲求を我慢していると、
自分は我慢していても、まわりの人や環境のほうが変化して、
結局は、我慢していたはずのその「やりたかったこと」ができるようになったりする。

…こう書くと「それはけっこうなことですね」と思われそうなのですけれど、
例えばその「やりたかったこと」ができるようになったその代償が、
何か大きな事故や災害、あるいは身内などの人に何か問題が生じてそれができるようになるのだとしたらどうでしょうか。

荒唐無稽に聞こえるかもしれませんが、
自分の来し方を振り返り、人生を精緻に観察してみれば、
誰しもが、自分の人生においてそういう出来事の一つや二つはあるのではないかと思います。

たとえば、現在のこの「テレワーク絶賛推進中」の状況にしても、
ずっとこの状況を待ちわびていました、という方は少なからずおられるのではないかと思うのですがどうでしょう。

人間、自分の様子をある程度きちんと把握していれば、
自分がどういうときに元気になって、どういうときに元気がなくなるか、ということが分かります。

誰といるときに自由になって、誰といると固まってしまうか、
どういう状況において思考が限定的になって、どういう状況において思考が拡がっていくか、
何をするときに自分らしくいることができて、何をしていると自分らしくなくなるか。

そして、それを「自覚したうえで無視した」ときに、どんなことが起こったか?
振り返ってみれば、それが本当に「危険」なことだと分かるのではないかな、と思います。

気付かなければまだ罪は軽いのですけれど、
「気づいたうえで」それを無視することは、多分とても罪が重い。

最近、そんな気がしていたら、
昨日お越しになった方が、そういう話をされていて驚きました。

そのお話を伺いつつ、
「自分の好きなことが分かりません」
「自分の欲求を認識できません」
という方のことを、私はちょっと怠慢なんじゃないかと思っていたのですけれど(すみません)、
実はそれはそれで、「救い」でもあるのかもしれないな、とも思いました。

いやもちろん、「長い人生の中で宿命を消化する」という意味ではあまり良い状況ではないのですけれど、

恐らく、
「気づいたら」それに向かう責務が発生するのだと思うのです。

けれど、
「気づいていなければ」それはまだ、モラトリアム期間中なんだろう、ということです。
もちろん、いつまでもモラトリアムにはいられないですけれど。

いずれにしても、
自分や自分のまわりの人、家族や大切な人を大事にしようと思うなら、
実は、「我慢する」のではなく「我慢せずに自分の気持ちに正直に生きる」ということがとても大事なんじゃないかと思った、というお話です。

突然すべてを変えることは出来なくても、
少しずつでも「自分の気持ちに正直に生きる」という要素を人生の中に加えていくことができれば、
環境が壊れてしまうようなことにはならないのではないか。

ちなみにこれは、
「自分のやりたいことを我慢する」ということだけでなく、
「自分の勝ちパターンを放棄する」というケースにおいても当てはまるような気がしています。

つまり、ある程度人生を渡ってきた人であれば、自分の「勝ちパターン」というのがだいたい分かると思うのですが、
そういう人が「自分の勝ちパターンを自覚して」敢えてそれを採用しないでいるときも、
何かしら問題や事故のようなことが起こるような気がします。

とりわけ、ある程度、仕事で活躍したことがある人や、たくさんの人とのかかわりの中で存在感を発揮したことがあるような人(=宿命をある程度消化している人)であれば、ほぼまちがいなく「自分の勝ちパターン」というのを認識しているだろうと思うのですが、
そういう人が、自分の「勝ちパターン」を放棄して、あるいはまわりに気を遣ってその「勝ちパターン」を歪めて見せたりしていると、
いろんな意味で、苦しいことになっているな、という印象があります。

自分が自由を我慢していると、その自由を制限している人たちに物理的な問題(例えば事故とか病気とか)が起こって彼らが排除され、
その先において自分が自由になる、とか。

人間が自分の「勝ちパターン」を知りつつも、それを我慢していると、自分のみならず、自分以外の人に禍を呼んでしまう、とか。

「自分の気持ちが向く方向に自由に進む」とか、
「自分の勝ちパターンでやっていく」というのは、
宿命通りの在り方で生きる、ということと同義なのですが、
本質的に、人間は、「自分の宿命を全うする」という使命を帯びて生まれてきています。

にもかかわらず、それをせず、放棄して、他人に譲ったりしていると、
何か問題が起こって「それをせざるを得ない環境」を引き寄せるか、
あるいはその役割を追われてしまって立場を失ってしまうか、
…するんじゃないかな?と考えた次第。

そんなことを考えつつ、
我慢する、無理をする、手加減する、というのはとても「危険」なことだとしっかりと認識して、
自分の生き方を全うすることが、「みんなにとって」幸せなことである、ということを忘れないようにしなければ、と思いました。

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4 件のコメント

  • この記事を読んで、最初に思ったことは
    生きている人間は実は少ないのでは? ということです。
    巻き添えを食らってしまう人、どかされてしまう人は生きてはいないのでは、と
    算命学的にいえば宿命を果たそうとしている人
    宿命を果たし続けている人

    そんなことに蓋をしている人(僕の表現ではゲームのNPCです苦笑)
    どうでしょうか?
    この世というのは思った以上に不思議だなと思います

  • みくにさん、こんばんは。
    そうですね、生きてる人、多分2割くらいですね。
    パレートの法則的にそう思います。
    本当に不思議です。

    そして不思議なんですが、最も不思議なのは、
    2割しか稼働しないと思いつつも全力で「全員稼働」を目指すほうが成功する、ということです。
    面白いですね。

  • こんにちは、奈々先生。

    私は父と暮らしていると、非常に辛く自ら命を絶とうと行動まで起こした過去があります。大人になり色々経験を積み恨んでても、やはり恩を感じていたので切るに切れず。しかしこの年になっても父の気に入らない事をすると勘当してきます。
    が、自分らしく居る為には勘当されても今が自分らしいので最近は、父とてもう良いやと思ってます。
    我慢すると全く星を稼働出来ていないです。
    実は父の日干支と私の月干支が律音です。
    だから父の分身みたいな物だと解釈してます。
    父の意に沿わないと折檻されるのは、それ故なんでしょうね。
    後辰巳なので、拘ったり背負う必要も無いんだと思ってます。
    ただ父が動けなくなった時は、助けに行きます。
    良い時は本当に良いのですが、合わない時は苦しい。身内での律音は難しいですね。

  • のんちゃん、こんにちは。
    家族だからといって仲良くできるとは限りませんね。
    いわゆる家父長制的、封建的な時代ではないので、それに囚われなくても良いと思います。

    親子の律音は、親の何かを継承する役割ですね。
    離れていることで健やかというのも分かります。

    家族というのは律音に限らず「宿命消化のキモ」なので難しさは当然にありますが、それを超えていくことで成長もできますね。

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